MAYA ANGELOU

MAYA   ANGELOU

マヤ アンジェローが5月28日ノース キャロライナ州のウインストン セイラムの自宅で亡くなりました。86歳でしたが、その生き方は勇ましく,壮絶で,同時に美しく,劇的でしたから,普通の人の10倍ぐらい,800歳分ぐらい生きたような印象を受けます。
1993年クリントン大統領の初めての大統領就任演説の時,大柄な黒人女性が朗々と響き渡る声で,詩を朗読,最後に「グッドモーニング」と言って終わったのを覚えてる方も多い筈。易しい言葉を力強く使ってのマヤの詩は,教育の無い人にも強いインパクトを与え,教育のありすぎる人には,シンプルな共感を感じさせる,凄い影響力を持ったものでした。
わたくしは幸運にもパートタイムで住んでいると思われるニユーヨークのアパートで、マヤ本人に会ったのです。ケネデイー空港に行く途中にある非常に地味で,実用第一の部屋には世界のお土産や本が所狭しと飾られ,アーテイストの雰囲気がありました。
1928年4月4日セントルイスに生まれたマヤは,才気あふれる美人の母親を慕いながらも,その母親の恋人にレイプされ,この男が裁判前に殴り殺されたその瞬間から「自分が話したせいで,リンチにあった」と6年間余り声を失い、話す相手は兄だけだったそう。
運良く,街の黒人貴族のような存在の女性がマヤの才能を見抜いて,以来,マヤは言葉と発音,言い回しに特別な注意を払うようになり,たくさんの本や詩を読みあさって,言葉を愛するようになったのです。
若い時は舞台や映画で踊ったり歌ったりし、「ポギーとべス」の主役を得て,54年から55年まで22カ国の巡業をしたのでした。
50年後半にニユーヨークのハーレム ライターズ ギルドに参加して、ここからマーテイン ルーサー キングらと市民権運動を創立,この頃、南アフリカ人の自由民権運動家のヴズムジ メークと知り合い,カイロと言う息子を生みます。メークとの仲が終わってから、ガーナに移って,新聞の編集をし,64年米国に戻り,マルコム Xの組織で働きました。マヤが40歳のとき,マルコム X が暗殺され,次に彼女のストリーテリングの才能が花開き,有名な最初の著書「I  KNOW  WHY  THE  CAGE  BIRD  SINGS」が69年に出版,レープから,白人を見た事も無い辺鄙な田舎の暮らし,金髪と青い眼に憧れた少女時代などその余りに赤裸裸で正直でショッキングな内容に話題騒然となりました。ニユークタイムズのベストセラーに2年間連続で上げられ,その後のブラック フェミニスト運動の走りとなったのです。合計36冊以上もの著書を出しましたが,この処女作がもっとも有名です。

クリントン大統領が就任した1993年1月にわたくしは,日本の人気女優が就任パーテイーに出席すると言うので,全く記者証など取れないままに首都ワシントンに行ったのでした。今思うと大胆不敵ですが,街のあちこちのレストランなどで彼女と一行を見かけたりのゲリラ追跡取材となり,就任式当日はしっかりテレビで式次第を見物,そしてマヤが登場しました。
威厳のある長身と格調高くも華やかな雰囲気に溢れたマヤは,ていねいに心をこめて言葉を発音しつつ,間合いの凄さは歌舞伎役者かシェイクスピア俳優の巧みさで,単純な詩を高水準に引き上げて朗読。何と言うか小学校の先生が,児童唱歌をゲーテの詩の様に演出したようにも思え,その鮮やかなスタイルに感動してしまいました。
2年後「キルトに綴る愛」(95)と言うウイノナ ライダー主演の映画にマヤも出演し、その為に彼女に会うチャンスを得て,ニユーヨークのアパートにお邪魔した次第。

そして実は今日(5月30日)、黒人女優のシシリー タイソンの「トリップ トウー バウンテイフル」(14)、ジェラルデイン ペイジ主演の同題の85年の映画の黒人版リメークですが、この会見でマヤと「ルーツ」(77)

1993クリントン大統領就任式


などで共演した彼女にマヤの事を聞くと,全身をこわばらせて,引きつった表情になり、
「とても今は話せません。余りに哀しい出来事ですから」と言う悲痛な答えが返って来ました。
巨大な損失を再び感じてしまった、寂しい会見になってしまったのです。
1995 「キルトに綴る愛」ニユーヨークのアパートで。

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