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Showing posts from August, 2013

DANNY AIELLO

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DANNY   AIELLO ダニー アイエロの素顔は189センチの長身の、優しくて,ビロードのような声もエレガントな,ダンデイーな紳士ですが,役柄は得てして,暴力的で,品のないマフィアや落ちぶれた刑事などばかり。 「「ゴッドファザー2」に始まって色々なイタリー系のやくざな男を演じてきたが,私の母はナポリから来た生粋のイタリア人でめっぽう躾けに厳しく,家では誰も “ヘル” などと言う言葉を使わなかった。6人兄妹の末っ子に生まれたが家に来る人たちもそのての汚い言葉は使わなかった。ところが映画に出るようになって,来る役,来る役,ヘルどころではないひどい言葉を機関銃のように連発して使う。恐ろしいもので,セリフでも毎度使っていると慣れてきてしまい,思わず口走ったりするようになる。今の若者が、Fワード無しにものが言えない状況はうっとうしいが,まあ仕方がないと言えよう。言葉の浄化運動でも始めるか!」 などと嘆息していました。 1933年6月20日ニユーヨーク生まれのダニーは,労働者の父親と先に言ったナポリターナでお針子をしていた母親の間に6人兄妹の末っ子として育ち,目が見えなくなった母親を置いて父親が家出をし,その為に子供たちは死に物狂いで母親を助けたそう。 ずっと後になって父親に再会したダニーはどうしても父を許せなかったと言っています。 16歳の時に年齢を偽って(昔は,兵隊が必要だったこともあって、良くそう言うことがあったようですが,最近は無理でしょうね)陸軍に入隊。数年後に除隊した後はグレイハウンド バスで働いたり,路上の靴磨き、ナイトクラブの用心棒をしたりと,底辺の暮らしをしていたとか。 30代後半から舞台に出ることになり、40歳になって初めて映画に出ます。 最初の映画のタイトルが「ゴッドマザース」(73)と言うのも,翌年の「ゴッドファーザー2」に出たことを考えると運命的なものが覗けます。 「月の輝く夜に」(87)では主演女優賞を獲ったシェールの求婚者の役を情けなそうに演じてました。勿論ニコラス ケージ扮する片腕のパン屋がシェールのハートを射るのですが,この映画には、ヴィンセント ガーデニアや日本でシャリアピン ステーキを作らせて有名なオペラ歌手の息子のフェオドール シャリアピン ジュニアが夜,犬のように遠吠えをする爺さん役で出ていたり

CARRIE-ANNE MOSS

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CARRIE -  ANNE   MOSS 一世を風靡した「マトリックス」(99)のトリニテイーを颯爽と,雅やかに演じたキャリー アン モス登場。 主人公のネオを演じるキアヌ リーヴスの人気が沸騰して世界中の女の子が騒いでいる時,普通ですとミーハー族は相手役の女性に八つ当たりするのですが,キアヌ ファンたちはキャリーを味方のように受け入れてました。 媚びないで,淡々とした風情とオトナコドモのようなキアヌのしっかりものの姉貴のような存在が良かったのでしょう。 1967年8月21日カナダのブリッテイッシュコロンビアのヴァンクーヴァーに生まれ,母親は当時のトップグループサウンズのホリーズの「キャリーアン」と言う歌から取った名前だそうで,当人は「気軽に付けちゃって!」と少しばかりむくれる真似をしていました。 11歳の時に入った児童劇団で張り切り、学生の時はヨーロッパ旅行などした積極的な若者のようです。 20歳の時にモデルの仕事で再びヨーロッパに行き,世界中の一流雑誌に載るトップモデルのひとりだったそう。スペインでテレビシリーズ「復讐処刑人」に出る機会があり,その時のロケでハリウッドへ。そのまま映画界に滑り込むと言う自然体の女優のスタートでした。 最初の「マトリックス」(99)の会見では,内気そうでいて,結構ジョークなどを飛ばす世慣れたプロの面を見せて,ここでもひ弱なキアヌを助けたり弁護したりしていたのが懐かしく思いだされます。 「メメント」(00)ではガイ ピアースの相手役として難解なストーリーのドラマに女性の柔らかさを添えていました。 「マトリックス リローデッド」と「マトリックス リヴォルーシヨンズ」(ともに2003)では少しばかり,注目されすぎての疲れと言うのか,澱のようなものが漂っていました。何と言っても少年向き(キアヌのファンは女の子ですが)のSFアクシヨンものですから,ヨーロッパ志向のキャリーにとっては繰り返しているうちに,虚しさも感じてしまうに違いありません。キアヌ自身も興奮したかと思うとだんまりを決め込んだりの落ち着かない不安定さを見せていましたし。 「サングランスをかけるとすぐにトリニテイーだってばれてしまって,普通の有名人の逆なのよ。素顔でいると誰も分からないのだから」 などと苦笑いしてたのもおかしい想い出です。 19

CUBA GOODING JR.

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CUBA   GOODING   JR. 愛嬌で勝負しているように,常に陽気で,けたけたと笑って回りをポジテイヴな渦に巻き込むようなキューバ グッデイング ジュニアです。 初めて会ったのはキューバがアカデミー賞助演賞を受賞した役の「ザ エージェント」(96)の時。 当時26歳の彼はハリウッドで働くのが楽しくて楽しくてならないと言う元気とやる気がむんむんでした。 「ザ エージェント」 「トム(クルーズ)と共演なんて,うちの家族は卒倒しかねなかった。それも彼と絡むシーンがたくさんあって,色々と即興の台詞が飛び出たり,予期しない動作を見せたり,お互いに刺激を分かち合って,とびきり楽しい現場だったのだよ! トムのプロ意識とエネルギーにはたまげたね。永遠に使える電池みたいなんだから」 アカデミー授賞式で舞台の上に立ったキューバが「制限時間一杯にしゃべります。時間を越したらカーテンを閉めても良いけれど,僕は感謝のスピーチを続けます!」と言って,上気した顔で誰にも彼にも「アイ ラヴ ユー!」と言ってから,金の像を床において,飛び回って躍り上がって喜んだのもいかにも彼らしい楽しい想い出です。 今でも授賞式スピーチのトップテンにリストされている歓喜の爆発の瞬間でした。 1968年1月2日ニユーヨークのブロンクスで「ザ メイン イングレデイエンツ」と言うバンドのリード歌手のキューバ グーデイングを父に,「ザ スウイートハート」と言うバンドのヴォーカルの母を持って生まれたキューバは小さい時から歌って踊ってが大好きな,一時もじっとしていない男の子だったそう。両親は同時に有名なハーレムのアポロ劇場のマネージャーもしていたとか。 1972年にロスアンジェルスに一家で引っ越し,高校を4回も転校したにもかかわらず,キューバは3回も級長に選ばれたと言う人気者にして,優等生でもありました。高校では日本のマーシャル アーツに凝っていたと言うのもうなずけます。 流行のブレークダンスが上手でロスアンジェルス五輪の閉会式でライオネル リッチーの歌に合わせて,得意のブレークダンスを踊っていたのですって。 高校時代のスウイートハートのサラと結婚,二人の子供を持った今も幸せな家庭を送っていると言うのも,彼の安定した性格が原因のひとつでしょう。 色々な役を演じてますが,スピルバー

KATIE HOLMES

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KATIE   HOLMES ご存知前トム クルーズ夫人です。ケイテイー ホームズは少女っぽいルックスなのにトムより遥かに背が高くて、おかしなカップルでした。2006年の11月に結婚,一人娘のスリが生まれて,6年後の2012年に突然離婚。今だに原因は不明ですが(どうでも良いですことですが) 2003  「エイプリルの七面鳥」 やれトムが信者のサイエントロジー教に恐れをなした,等と言われてますが,スター同士の結婚はどちらがより自分のキャリアーを犠牲するか,のバランスが崩れると駄目になりますものね。 その前のミセスのニコール キッドマンもトムより背が高かったのは、愉快な現象と言えましょう。 二人ともトムと別れての最初のコメントは 「あー,これからはハイヒールの靴を思う存分はける!」 でした。 1978年12月18日オハイオ州トレドに弁護士の父,主婦にしてチャリテイー運動に忙しい母親のもと、5人兄妹の末っ子として生まれ,ローマンカトリック教の敬虔な信者の家族でしたと。 子供の時からモデルの仕事をしていたと言う目だって可愛い少女だったそう。学校の成績もいつもトップでコロンビア大に入り,父上は彼女を医者にしたかったと言います。 アン リー監督の「アイス ストーム」(97)のオーデイシヨンに受かって,映画デビュー。 人気テレビシリーズ「ドーソンズ クリーク」(98−03)で良い女高生役を演じて,テイーンの人気者になります。 初めて会ったのは彼女が主演した「エイプリルの七面鳥」(03)で,いかにも中西部生まれの人の良さと優等生の受け答えが爽やかでした。お料理等したこともないエイプリルがサンクスギヴィングの七面鳥を焼く破目になり,大きなナマの七面鳥と格闘,とてもきれいとは言えない台所の床に落としたり,見ているだけで食欲が亡くなるお料理シーンでした。人なつっこさが魅力で、いかにも両親の愛情を満身に受けて育った暖かさに溢れて,息子のお嫁さんにしたいようなタイプ。 この時若手俳優のクリス クラインと婚約中で,けたけたと笑っては,婚約指輪等見せびらかして,幸福の真っ只中でした。 「母が趣味を持った方が良いとお裁縫を教えてくれて,私もシンプルな洋服位なら縫えるのよ! それから絵画もレッスンを受けて,結構さまになる絵も描いています」 などと言う屈託の

DON AMECHE & JOE MANTEGNA

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DON   AMECHE    &  JOE   MANTEGNA 実はこの写真を見た時,ドン アメーチでなく,ヒューム クローニンかと思って,ジョー モンターニャと共演の映画を探したのですが全く無いのです。 ドンとヒュームが共演した「コクーン」(85)の写真を見ていて,はっとしました。ご両人とも歳を取ってからは,似たような好々爺の顔になってますが,ヒュームは169センチと背がとても低いのです。そしてドンは180センチを超す長身で若い頃はムスターシュひげと真っ黒な髪のいなせにして、大変なプレイボーイだったそう。身長の差で身元を確認した訳でした。 映画は「シングス チェンジ」(88)でした。デイヴィッド マメットの脚本,監督でドンは正直なイタリー人の靴屋,彼をマフィアの殺人犯に仕立てようと企みに乗ったジョーが彼の世話をしているうちに色々なハプニングが発生と言うマメットならではのシャープな会話が叛乱するドラマです。 ドンは1908年5月31日にウイスコンシン州のキノーシャに,ドミニック フェリックス アミーチとして生まれ,父親はイタリー人のバーテンダーで母親はスコッテイシュ/アイリッシュ系,小さいころから敏捷で,ルックスも声も良く将来は役者と周囲は見ていたそう。 しっかり大学に行って弁護士になるつもりがやはり芸能の方が向いているとまずは響きの良い声を買われてラジオのスターに。 「戦う巨象」(35)の後フォックスと契約。電話の発明者ダニエル ベルに扮した[科学者ベル」(39),アメリカの民謡の父,フォスターを描いた[懐かしのスワニー」(39),エルンスト ルビッチ監督の[天国は待ってくれる」(43)などなど。 1946年頃ビング クロスビーとボブ ホープがプロフットボール球団、”LA ドンズ” を設立し,前から存在するナショナル フットボール リーグに対抗してアメリカン フットボール リーグを作ったのもこの時期で,ドンは何とドンズの支配人をしたこともあるのですと。 甥っ子のアランは名フットボール選手で1954年にハイズマン賞を受けたそう。 エデイー マーフィーの「大逆転」(83)でダンデイーなシニアとしてカムバック。 「コクーン」(85)では老人ホームのおしゃれな老人を熱演してアカデミー助演賞を受賞,「コクーン2/遥かなる地球」(88

DEREK JACOBI

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DEREK    JACOBI デレック ジャコビに初めて会ったのは「ヘンリー五世」(89)と言うケネス ブラナーが初めて監督を手がけ,脚色,主演も兼ねたシェイクスピア古典劇の映画化に「コーラス」(劇の推進係)の役で出演した時。 名前がまず悪漢みたいで、覚えやすく、あまり大きな体格でもなく,とてつもないハンサムでもなく,普通の男性なのにスクリーンに出て来るとずしりと重量が増すような,破格の名優です。 「私はこよなく舞台を愛しますが,1982年に一度,何度も手がけた役を演じる為にステージに上がった途端,めまいに襲われ,膝から下が萎えてしまい,パニック症状で頭の中が空白になって,その時から数ヶ月、休んでいたことがある。しかしこのままでは永遠に舞台に戻れないと覚悟を決めて復帰した。あの恐怖を克服したと言う勝利が今の僕を支えていると信じている」 「演技は絵画であって,写真ではありません。描くものが演じる役者によって違います。私はエゴを捨て,舞台でひとり輝こうとしたりせず,役の中に自分を埋めていると信じて演技をします」 などとゆっくりと格調の高いアクセントで話していました。 1938年10月22日 英国の東ロンドン郊外にあるレイトンストーンにデパートを経営する父親と秘書の母親の間の一人っ子として生まれ,非常に幸せな子供時代を送ったそう。曾祖父は19世紀にドイツからの移民して来たと言います。6歳の時に図書館の劇団で「王子と乞食」の両方の主役を演じてすっかり一人前の俳優の余裕を見せたと言います。 高校時代の巧みな演技力がケンブリッジ大の奨学金につながり,55年エジンバラで「ハムレット」を演じてプロの俳優に。まもなくデレック主演の「ヘンリー四世」の舞台を観たローレンス オリヴイエがいたく感動して,彼の招きで63年にナシヨナル シアターに移ります。 数々の舞台を踏み,映画デビューは舞台収録版の「オセロ」(66)ですが本格的な役は「ジャッカルの日」(73)でした。BBCテレビの「アイ,クローデイアス」(76)の主役は全英で大評判になったとか。 「リトル ドリット」(87)ではアレック ギネスと共演のチャールズ デイッケンズ原作の映画でした。ここで共演した俳優のリチャード クリフォードと親しくなり,後に英国が同性の結婚を許可した2006年に晴れてセレモニー

SONIA BRAGA

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SONIA   BRAGA ソニア ブラガのハリウッド進出は「蜘蛛女のキス」(85)でしょう。ウイリアム ハートとラウール ジュリアが忘れ難い競演を見せた映画,ハートは女装が好きなゲイの役を激演してアカデミー賞を獲得しました。 ソニアは蜘蛛女,レニ,マルタの3役を演じて国際的に注目されます。 1950年6月8日ブラジルのパラナ州マリンガに不動産業の父親(黒人とのハーフ)とお針子の母親(インデイオとのハーフ)と言う豪快な混血の子供として生まれ,テレビ局勤務の兄の関係で14歳でテレビ番組に出るようになり,24歳でイタリアのスター、マルチェロ マストロヤンニが出た「ガブリエラ」と言うテレビシリーズに主演してスターに。 野性的なセックス アピールが評判を呼びます。 初めて会ったのは「ミラグロ/奇跡の地」(88)の時でロバート レッドフォードが監督した意欲作でした。この映画がきっかけで二人はロマンテイックな関係になりましたがあまり長続きはしませんでした。 ソニアはたった157センチと小柄なのですが,豊かな黒髪と大きな目鼻立ち,官能的な動作と頭の良い受け答えで実際より遥かに巨大な存在感を漂よわせる異色のスターでした。 英語も上手で,何よりも大きな瞳が強い感情の表現力になってましたし、怖いものなしの肝っ玉も感じられました。 ヴァンヘーレンのバンドのフロントマン,デイヴッド リー ロスとも交際したり、と色々な分野のスターが彼女に参ってしまうのがよく分かります。 「ルーキー」(90)ではクリント イーストウッド(監督主演)をほとんど “強姦” してしまう大胆な情婦を怪演。手錠をはめられたクリントをいたぶるソニアの欲情と侮蔑の表情は猟奇的な見ものとして噂になりました。 この時もソニアはクリントとしばらくの間恋愛関係を結んでます。 でも全く結婚には興味がないようで生涯独身を貫いているところも気っ風の激しさを感じさせますね。 1988  「ミラグロ/奇跡の地」 最近ではテレビ番組のゲストとして頻繁に顔を出し「セックス アンド シテイー」(01)ではセックスのプロと言う絶好の役どころでポルトガル語など混ぜてのおかしな台詞を言っては、受けていました。 姪のアリス ブラガが「エリジアム」(13)でマット デーモンの相手役をしたりとブ

CHUCK NORRIS

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CHUCK   NORRIS 懐かしいチャック ノリス。下の写真は1987年の「ファイヤー ウオーカー」の時,今から26年前,チャックが男勝り47歳の全盛時です。 強面のマッチョマンを演じても顔つきがちょっと間延びしているのでコミカルになって,それが近づきやすい,頼りになるタイプとして人気が出たのでしょう。 1940年3月1日 オクラホマ州のライアンに生まれ,父親は機械工にして,バスとトラックの運転手,チェロキー インデイアンとアイリッシュの血をひいているそう。16歳の時に両親が離婚して,チャックは母親についてカルフォルニアのトーランスに移ります。ここのノース トーランス高校の第一期生として入学。トーランスは私めも住んだことがあり,娘はトーランス高校(ノースではありませんが)に通いました。 チャックは空軍兵として朝鮮戦争に出征,ここで空手等の格闘技を学び、 帰還してから68年に空手世界ミドル級のチャンピオンとなります。74年に隠退する迄に6回も王者の座に。 空手スクールをオープンし,ここに通っていたステイーヴ マックイーンと親しくなって,彼のすすめで俳優としてのレッスンを受けます。 ジョン ウェインの大ファンの彼は,勇んで練習を続け、特に歯切れの良い話し方をマスターすることに注意したそう。 69年にデイーン マーテイン主演の「サイレンサー/破壊部隊」で映画デビュー,その後友人のブルース リーの敵役として「ドラゴンへの道」(72)で出演,ここで人気を博して,「トラック ファイター」(77)では主演の座に。 スタントマンを絶対に使わず,リアルで迫力あるアクシヨンで有名になり,当時のスーパースターたち、シルベスター スタローンやシュワルツネッガーと人気を競いました。 会った時は,既にベテランのアクシヨン スターの誇りと自負心に溢れて,中西部から出てきた背もあまり高くなく(178センチとありますが,おそらくブーツをはいての身長でしょう)平均的な体格とルックスの彼が努力を重ねて来た重さが感じられました。 ライバルのスタローンとシュワちゃんについては 「僕は彼らのようなムキムキの筋肉を良いと思わない。ほんものの戦闘体格はリーン アンド ミーン(痩せて,鋭い)のが理想的。映画の視覚効果ではムキムキが映えるがね。しっかりとダイエットをし

JOANNE WHALLEY

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JOANNE    WHALLEY つぶらな瞳に豊かな黒髪、小柄ながらも豊満な曲線美、加えて、耳に心地よい低い声でのクイーンズ イングリッシュのアクセント、と80年代後半に人気を博したジョアーン ワーリーです。 初めて会ったのは「ウイロウ」(88)でお姫様を演じてハリウッド映画デビューをした上に,共演のヴァル キルマーと恋に落ちて,その年に結婚迄した時。すぐに名前もジョアーン ウオーリー キルマーと変えて、実にうれしそうでした。 「ウイロウ」は小人が大勢出て来る空想時代劇で、いかにも少年の心を見せるロン ハワード監督ならではの映画。あんなに大勢の小人を見たのも初めてですが,2年前に「オズ はじまりの戦い』(公開は13年)のデトロイトのセットを訪問した時。巨大なスタジオのセットに約200人の小人のエキストラがひしめいていて,その中には,顔も小さい小人(呼び名の違い等知りませんが)もいて,トイレに行くと踏み台があったりして,びっくりしたのを思い出します。 1988     WILLOW ともかく当時のジョアーンは,美しくて,可憐で,でも低い声から芯の強さが覗け、毎日がドピーカンのギンギン照りのハリウッドに慣れてない,月夜の花のようでした。 写真をご覧頂くと分かるように162センチのわたくすより かなり背が低いものの存在感はたっぷり。 1961年8月25日英国はマンチェスターに生まれた彼女は,10歳から子役として活躍,英国の超人気テレビ番組「コロネーシヨン ストリート」(1960)に出演。ルックスもちょっとナタリー ウッドに似ている子役出身なのです。 歌手としても「マンチェスター ニユー ウエーヴ」の流れに乗って,82年頃にバンドで歌っていたこともあったとか。 「ダンス ウイズ ア ストレンジャー」(85)でルパート エヴァレットとミランダ リチャードソンと共演してセクシな女優として大人の仲間入り,そして「ウイロウ」の後,「スキャンダル」(89)で英国政治界に波紋を投じたクリステイーン キラーを熱演。政治家たちのベッドの相手をする高級娼婦の役から「バッド ガール」のイメージが 張り付きました。 「風と共に去りぬ」の続編とも言える「スカーレット」(94)と言うテレビ映画に女主人公役のスカーレット オハラとして登場,相手役のレッ

CHARLIE HUNNAM

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CHARLIE   HUNNAM チャーリー ハナム、あまり聞いたことのない名前でしょうが英国人俳優の若手です。鉄人28号のような巨大ロボットと海の底からがおーっと出現する怪獣の大決戦を描いた新作「パシフィック リム」(13)でロボットの模型の中に入って リモコンで操作する操縦士の役を我らが日本の菊地凛子とペアを組んで勇敢に戦う役を演じています。 ロボットはイェーガーと呼ばれ、これはドイツ語では狩人の意味、対する原子爆弾で巨大になったような怪獣は、ゴジラやモスラのような恐ろしい体で、メキシコ人の監督のデル トロが小さい頃に夢中になっていた日本の怪獣映画のオマージュだそうです。 金髪に青い目、筋肉質の体と気さくな態度がちょっぴりオーストラリアの故ヒース レッジャーにも似て、とびきり気持ちのよい健康さを漂わせて、動きがシャープできれいな俳優。 1980年英国のニユーキャッスル アポン タインに生まれ、父親はタフガイ,母親はボヘミアン、と当人の描写ですが両親は彼が2歳の時に離婚、シングルマザーに育てられ、10歳のクリスマス イヴに靴屋でふざけているときにスカウトされて、テレビ番組の子供モデル役を得たとか。 それから次々と小さな役が続き、大きなブレークは「クイアー アズ フォーク」(99−00)と言うゲイのテレビドラマに出演した時。妙に無知で、時たま,高慢なネイサンと言うゲイの若者を好演、その為に若者の間で話題を呼びました。 「もの凄く悪い環境で,不良少年とけんかばかりしている子供時代だった。あのままあそこにいたら,絶対に監獄行きか,麻薬取引人にでもなっていただろう。自分の中にパーフォーマンスをするのが好きな要素があって,これであの環境から出られて,ラッキーだった」 その後色々なテレビシリーズに出てから,「ニコラス ニックルビー」(02)と言う映画に主演,チャールズ デイッケンズ原作の時代劇で,この時初めてチャーリーに会いました。当時22歳の彼は年よりずっと若く見えるいたずらっ子に見えました。それなのにもう結婚していて,妻はキャサリン タウンと言う高名な脚本家のロバート タウンの娘ですと。でもその後すぐに離婚しています。 アメリカのテレビ番組「サンズ オブ アナーキー」(08−)でのヘルズ エンジェルスもどきのオートバイ野郎を演じて人気を

JULIETTE LEWIS

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JULIETTE    LEWIS 90年代にコケテイッシュと言うのか,お茶目でやんちゃな女の子の代表みたいだったジュリエット ルイスも1973年6月21日ロスアンジェルス生まれですから,もう40歳!! 10歳年上のブラピの恋人(93)だった事もある独特の魅力を持つ,派手な存在でした。と過去形を使っていますが,どうしてまだまだ現役として活躍中です。 初めて会ったのは「ケープ フィア」(91)でニック 1995 「ストレンジ デイス」 ノルテの娘役を演じた時。刑務所から出てきたロバート デニーロとの絡みが見もので、アカデミー賞助演賞にノミネートされたました。マーテイン スコセーシ監督が異常性を強調して,「エルム街の殺人鬼フレデイー クリューガー」のようだと言う批判もありましたが,62年のオリジナル(ロバート ミッチャムとグレゴリー ペック競演)との違いを彼なりに見せたかったのでしょう。 当時18歳のジュリエットは怖いもの知らずのいたずらっ子のようで,唇をとんがらせて,生意気な事を吐いていました。カメラを向けるとわざと変な顔をしたり,くねくねと体を曲げたり,全く落ち着かないものの、頭の良さと演技で勝負の自負心が見え隠れしていました。 父親はジェフリー ルイスと言う俳優,母親はグラフィック デザイナーと言う自由でクリエイテイヴな家庭に育ち,他に4人の姉弟が居ます。6歳で既に子役として才能を見せ,12歳でテレビに出演,15歳で「花嫁はエイリアン」(88)と言う映画に出て,「ケイプ フィアー」の後は,ウッデイー アレン監督の「夫たち、妻たち」(92),デイカプリオとジョニー デップと共演した「ギルバート グレイプ」(93),強烈にヴァイオレントな「ナチュラル ボーン キラーズ」(94)等,話題作に次々に出ています。 低くてハスキーな声を使ってのロック歌手としても知られて04年から6年間は映画を休んで,「ジュリエット アンド ザ リックス」と言うバンドを従えて世界中を回りました。 99年から05年迄はプロのスケートボーダーのステファン ベラと結婚と離婚を経験。 何とトム クルーズやジョン トラヴォルタが信者で知られるサイエントロジーの信者でもあります。 「有名になるって,良い事より嫌な事の方が多いいのだから。集まったファンに気軽

MAXIMILIAN SCHELL

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MAXIMILIAN    SCHELL ヨーロッパ人ならではの凛々しいルックスです。マキシミリアン シェルは1930年12月8日にオーストリアのウイーンに生まれました。父は劇作家,母は女優、育ったのはスイスのチューリッヒ,ドイツが近隣国を侵略していた為にスイスに一家で移ったそうです。チューリッヒ大とドイツのミュンヘン大で演劇から言語学,音楽を学び,新聞に劇の評論を載せ,スポーツ記者もこなし,さらにはレナード バーンスタインのコンサートでピアノを弾いたと言う劇的な多才ぶりを見せていました。 1962年に舞台デビュー,「ハムレット」や「リチャード三世」の主役をベルリンやボン等で正統なドイツ語で演じ,大層な注目を集めたと言うのがよく分かります。あの端正な顔と生まれつき持っているような劇的効果をアップする才能が良く伺えますから,若い時は凄い迫力でしたでしょう。 ハリウッド映画デビューは「若き獅子たち」(58)。一説にはスタジオは姉のマリア シェルを使いたかったのが,誤解だかが生じて,マキシミリアンが出演。金髪に染めてドイツのナチ青年将校を怪演したマーロン ブランドの同僚役を手がけ,彼の貴族的な風貌が評判を呼び,この時以来マーロンとの交友関係も発展したそうです。 「ニユールンブルグの裁判」(61)はナチスの戦争犯罪を追求するスタンリー クレイマー監督の秀作。東京裁判の不公平さと同じように戦勝国が敗戦国を裁く矛盾を着いて,マキシミリアンはドイツ側の弁護士に扮して熱弁を振るいます。受賞疑い無しと言われたスペンサー トレーシーを抜いて、マキシミリアンがアカデミー主演男優賞から全ての演技賞を獲得,国際的レベルのスターに。 「オデッサ ファイル」(74)では姉のマリアと共演,その後も監督から脚本,制作も手がけて数本の映画を作っては相変わらずの鬼才ぶりを見せてました。 マレーネ デイートリッヒの記録映画「マレーネ」(86)ではインタヴユーと監督を兼ねて、 「マレーネはかなり男っぽく,非常に面白い女性で,馬鹿げた冗談をたくさん飛ばすのですよ」 と述懐してます。   1994     LITTLE ODESSA 初めて会見したのは「ミス ローズ ホワイト」(92)と言う映画で,ケヴィン ベーコンの奥方のキーラ セジウイックと共演,ヨーロツパのエレガ

JENNIFER BEALS

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JENNIFER    BEALS 「フラッシュ ダンス」(83)でしなやかな体と感性のある細い顔立ちに長い黒髪で憑かれたように踊るジェニファー ビールスはこの役で一挙にスターに。 実際に踊ったのは,ジェニファーの体に似ている数人のプロのダンサーで,彼女自身はアップの時や止まったポーズの時しかダンスの場面では出てないと言うのも映画ならではの魔法のトリックです。 初めて彼女に会ったのは「バンパイア キス」(89)と言うニコラス ケージが吸血鬼に噛まれたと騒ぐ映画で,ケージのパーフォーマンスが余りにもオーバーなため,当人が実際に噛まれたのではないか、とジョークになったりもしました。ジェニファーは当時25歳,小麦色の肌と大きな瞳がエキゾテイックで,柳のようにひょろりとした体も,どこか、はかなげでセクシーでした。 1963年12月19日 イリノイ州のシカゴ生まれ,父親は黒人のスーパーマーケットの経営者,母親はアイリッシュ系の小学校の先生で,ジエニファーは「バイレイシャル(2重人種ー混血)だった私は,白人でも黒人でもなく,孤立していつもアウトサイドにいました。でもそれが女優としての勇気と根性の源になったのかもしれません」 と白状しています。 優秀な成績で高校を出たジェニファーは名門のイエール大学の米国文学部へ。子供の時から女優になりたかった彼女は高校生の時タレントスカウトに見出され,まず「マイ ボデイーガード」(80)に小さな役で出て、大学1年の時に「フラッシュ ダンス」の主役を獲得。 86年にはインデイー系映画の監督,アレキサンダー ロックウエルと結婚,彼の作品「イン ザ スープ」(92)にはベテランのセイモア カーセルと共演。まだ新人のステーヴ ブセミが主演でした。 この時に週刊文春用にジェニファーとサンタモニカのコーヒーショップでワン オン ワンのインタヴユーをしたのですが,黒人の父親の事にはあまり触れたがりませんでした。 気さくで,優しい女性で,この時にお財布を忘れた私がレジで「後で払いに戻ってきます」「いや信用出来ない」などと言う問答をしているのを聞きつけて,自然にさりげなく払ってくれました。コーヒー代ですから大した事はありませんでしたが,そのさりげなさに大人の品格を感じたのです。 あまり物忘れをしないわたくしめのもっとも大きなハプ