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Showing posts from August, 2020

SAN FRANCISCO AUG 28 TO 31 2020 NO. 1

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SAN FRANCISCO AUG 28 - 31  2020 NO. 1 コロナ危機に入ってからのはじめてのドライブ旅行。 娘がニューヨークから飛行機に乗ってサンフランシスコに来たので5ヶ月ぶりに対面。 娘もそのパートナーも非常に感染を心配して、私たちは離れたモテルに泊まり、一緒の行動も常に6フィート(約180センチ)離れて、食事も違うテーブルで頂くという慎重ぶりです。 ロスが約40度近い暑さだったのに、ここは15度ぐらいの身震いする寒さ。持ってきた上着、薄いセーター、シャツは2枚、パンツも2枚重ねて履いて、それでもぶるぶるする、凍りつくような温度はつとに有名で、最も寒い夏の都市として知られています。 充分承知でいても、それでも鋭い寒さにはびっくりで、おまけに世界でも名だたる美景はすべて霧に包まれていました。 今はまだ旅行先なので、写真を2枚お目にかけましょう。 残りは後ほど。 モテルの近くの公園で、マイク、娘とワタクシ。 ふたりは持参のテーブルと椅子を運んできて、このピクニックテーブルで一緒に食べないという念の入れ方です。  

SUKI OF MULHOLLAND

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  SUKI  OF  MULHOLLAND これはワタクシがいつか書こうとしている愛犬のお話。 チャウチャウ ミックスのスキはロスアンジェルスのメキシコ人街で生まれ、そこでハンスの友人のドイツ人に拾われ、このドイツ人、フレッド FRED の仕事場のジャンクヤード、JUNKYARD つまり、屑やの裏庭を警備するために鎖に繋がれて育ちました。 ですから、甘えるという習慣がなく、他人が近寄ると牙を出して、獰猛な唸り声を挙げ、触ろうとでもしようものなら、パクッと噛み付くという習慣が身に付いて成犬になったのです。 ストリート ドッグ STREET DOG (つまり、野良犬)ですからタフで、怖いもの無し。 骨付きのチキンもバリバリと食べて一度もお腹を壊したことはないし、6匹ぐらいのコヨーテの群れに出くわしても襲いかかるばかりで、絶対に尻尾を巻いて逃げたりしません。 フレッドを訪れたハンスが可哀想に思ってスキを連れて帰ったのがワタクシとスキとの始まりです。 当時私たちはマルホーランド MULHOLLAND という大きな通りに面した家に住んでいました。 まずスキは裏庭に立派なウンチをしてテリトリーを確立、家の中を隅々までチェックして、背後に壁があるところに寝転びます。オープンの場所では寝ません。ガンマンみたいに後ろに壁がないと安心できないのでしょう。 全くしつけなどという代物を身に着けてないスキはその野蛮で野卑なところがユークな魅力でした。 「触らないで下さい!」という警告を出しても、スキは意識的にでしょうか、愛らしい表情を浮かべるので、まず隣のおじさんの友達が「可愛い犬だね!」と手を出して、その手をがぶっと咬み、家に来た友達の殆どが手を差し伸べてしまい、ガブッと言うほどではないにしろ、ピッと噛まれてしまったのでした。狂犬病証明書を見せたり、色々と苦労したものです。 ほんのしばらくだけ、何もしないで無視しているとスキの方から友情なり、お近づきの興味のしるしを見せるのですが、すぐさま、触られると駄目なのです。野良犬本能は死ぬまで消えませんでした。 庭師のパークさんも何度か噛まれて平謝りに謝ったものでした。もちろん郵便屋さん、デリバリーの人々などとは絶対に接触しないようにダブルドアーでブロックしていました。 粗野で野蛮な番犬と言うのはそれなりに非常に愛おしいものです。ご主人に近づく危

HARRY HAMLIN

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  HARRY   HAMLIN ハリー ハムリン と聞くと、古い映画ファンでしたら あの、最初のボンドガール BOND GIRL のウルスラ アンドレス URSULA ANDRESS の恋人 と思い出すでしょう。 ちなみにウルスラは15歳年上でした。 ふたりは「クラッシュ オブ ザ タイタンズ」CRASH OF THE TITANS (81)で共演し、79年から83年までロマンス関係を続け、デイミトリ アレキサンダー DIMITRI ALEXANDER という息子が生まれています。 ウルスラは1936年3月19日にスイスに生まれ、「ドクター ノー」(62)DR. NO のハネー ライダー HONEY RIDER 役で一躍有名になって、セックスシンボルとして世界を賑わせました。 1957年にアメリカの監督・俳優のジョン デレック JOHN DEREK (後にボー デレック BO DEREK と結婚しています)と結婚、66年に離婚、フランスのスター、ジャン ポール ベルモンド JEAN PAUL BELMOND と65年から72年まで交際、その次は、イタリーの俳優、ファビオ テステイ FABIO TESTI と73年から77年まで交際、それからハリーと仲良くなったのです。 この時代のスターたちの交際、結婚、などを見るとまあ、有名人がそれぞれ相手を変えて、くっついたり、離れたりと忙しいやら、混乱しがちな迷路のようなパターンを見せていました。 さて、ハリーはと言うと、1951年10月30日、カリフォルニア州のパサデナ PASADINA (ロスアンジェルスの北東にある古い街)に、航空技術者の父親と社交界のマダムの母親の間に生まれ、裕福な家庭に育っています。 私立の全寮制の高校からカリフォルニア大バークレー BERKELEY に入学、さらにイエール YALE 大学で演劇と精神学を学ぶなど優等生でもあった様子。 1976年にテレビドラマ「じゃじゃ馬ならし」the TAMING OF THE SHREW で俳優デビュー、 78年にはジョージ C. スコット GEORGE C. SCOTT と共演した「ムービー、ムービー」MOVIE, MOVIE でゴールデン グローブ賞にノミネートされ、ギリシャ神話「クラッシュ オブ ザ タイタンズ」(81)でウルスラと運命の出会いをし、注目のス

THEO'S PHOTOS

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  THEO'S   PHOTOS テオ THEO KINGMA は親しい友人でプロのフォトグラファー、オランダ人で、物凄いのっぽ。 ちょっと変わっていて、以前は雑誌に載せる写真を頼んでいたけれど最近は、ハリウッドのスターなのに興味がなくなったらしく、大好きなキューバに渡ってはキューバ人の生活などを撮影したり、福祉活動に勤しんだり、一時はハリウッド フォーリン プレス アソシエーション HOLLYWOOD FOREIGN PRESS ASSOCIATION の会長を勤めたり、なかなか正体がつかめないタイプです。 オランダに行った時、エレベーターのボタンはずっと上にあるし、シャワーのハンドルも高いところにあるし、壁のフックもやけに高いところにある「ガリバーの国」と発見。 190センチを優に超すテオの友人は彼よりのっぽで、北ヨーロッパは巨人がゴロゴロ、それに比べて南ヨーロッパは日本人ぐらいの背の高さの人々ばかり。 ま、ともかく、のっぽのカメラマンは上から撮影するので良い写真が取れるというアドバンテージがあります。脚立の必要がないから。 スターと一緒のツーショットを下から撮ると「鼻の穴」ばかり見えるショットになってしまいますし、真正面だと緊張したショットになりがちですし。 ハッセルブラッド HASSELBLAD (スウェーデン製の高級カメラ)の小さいカメラをどこにも持ち歩いていて 私たちをよく撮ってくれました。 最近、コロナ自粛で家に籠もっていたせいか、突然昔の写真を2枚送ってきたので、お目にかけましょう。 20年以上前のおそらくニューヨークに行った時の2枚。 やっぱりプロの写真はカジュアル スナップとは言え、味わいのある雰囲気が感じ取られます。 1994  私たちが付き合いだした頃。 かなりくたびれている私たち。 ニューヨークのホテルのバーでしょう。 Theo  Kingma あの、のっぽのニコール キッドマン でさえ、小さく見えます。

ANTHONY LAPAGLIA

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  ANTHONY   LAPAGLIA 長いことハリウッドで静かに、深く、冴えた演技を見せているアンソニー ラパリア Anthony LaPaglia  は、アメリカ人と思われがちですが実はオーストラリア人なのです。 最も有名なのはおそらく主演作の「ランタナ」LANTANA (01)でしょう。シドニーの郊外、ランタナで見つかった女性の死体を巡っての何組かのカップルのドラマ。 共演はやはり豪州産のベテラン、ジョフリー ラッシュ GEOFFREY RUSH 、アメリカのベテラン女優、バーバラ ハーシェー BARBARA HERSHEY も加わってます。 どうしてアメリカ人かと思ってしまう理由に、例の豪州訛りが全く無いアメリカン アクセントで最初から話していたからでした。 「アメリカで俳優として成功するには、アメリカ人になりきるのが一番大事だと思ったから。最も私的な会話では生まれが知れてしまうこともあるし、もちろん同郷の人にあったら、ストレートにオーストラリア語になってしまいますね」 と正直に苦労の歴史を話してくれました。 顔からも想像できるように誠実で、脇役で光るタイプの俳優です。 口下手で、自分のことをしゃべるのが不得手なところに男らしい朴訥さを感じました。 1959年1月31日 豪州の南部のアデレード ADELAIDE に、オランダ人のモデルだった母親とイタリー人の車のデイーラーの父親(ご存知のようにオーストラリアも米国と同様に移民の国です)のもとに生まれ、サッカーの選手を夢見て、地元のチームで活躍。 それから俳優を志して有名な演劇学校を受けたものの不合格、1980年には靴屋のフローシャイム FLORSHEIM で働きながらドラマのレッスンを受け、  映画の都、ハリウッドにやって来たのが 82年頃。 1985年に初めてテレビに出演、 1997年から98年にはブロードウェイの舞台「橋からの眺め」A VIEW FROM THE BRIDGE に出演してトニー賞を受賞、 その直後、後に大ヒットとなった「ソプラノ」THE SOPRANOS  の主人公役のオファーを受けますが他の仕事でスケジュールが詰まっていたのでやむを得ず見送ったそう。もし受けていたら、今は全く違ったスターになっていたかも知れません。 ソプラノ役で大スターになったジェイムス ガンドルフィーニJAMES G

A MEMORIAL DINNER AUG 2020

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A MEMORIAL DINNER  AUG 2020 私達が属しているハリウッド フォーリン プレス アソシエーション HOLLYWOOD FOREIGN PRESS ASSOCIATION の会長だったロレンゾ ソリア LORENZO SORIA が急死しました。 68歳と若かったものの、9年前に肺がんとなって、最近また治療を受けて、コロナ危機の間も賢明に戦っていたものの残念ながら敗戦。 友人のアマンド ARMANDO はロレンゾとは長い友人の間柄で亡くなったあと、しばらくは呆然としていました。二人共イタリア人なので感情の起伏が凄くて、しょっちゅう罵り合っていましたが それもまた友情のひとつなのでしょう。 アマンドを慰めるために彼の家にワイン持参で行ってきました。自慢の野菜栽培のお庭でアマンドは昨夜の残りの巻きずし(ステーキ屋のデリバリーにくっついてきたそうで西洋っぽい味)と手に入れたばかりのエビのお料理を振る舞ってくれました。 ロレンゾがアルゼンチン生まれ(幼少のときにイタリーに戻ったのです)なのを想いだしてのアマンドならではのアイデア。 赤海老 ベニス風、ARGENTINIAN RED SHRIMP FROM PATAGONIA だそうで、殻もちゅーちゅー吸って食べろと注文がうるさいのですがほんとにからの隅々まで美味しさが詰まって、残ったお汁もパンですくって、お皿はピカピカ。 アマンドはプロのフォトグラファーで、ハリウッドのスターとロックンロールの歌手を50年間撮り続けています。 アマンドの奥方はアメリカ人でシェリル CHERYL と言って昔、日本のヤマハ(多分)で働いていましたが今は病気療養中(いろいろな箇所が悪く、背骨のダメージとかもあってよく歩けないのです)、ここに載せた写真を嫌がってましたがそれほど悪くもないと勝手に解釈して、お庭の風景なども見えるのでお目にかけます。 ロレンゾの思い出をたくさん喋り、コロナの行方を談義し、エビをちゅーちゅー吸いながら、暖かい夕方が暗くなった頃、私達はおいとましました。 最後にアマンドが玄関脇のいちじくの木からいちじくを一個もぎ取ってくれたのですが、それが甘くて新鮮で目下、どこのスーパーに売っているかどうか探している次第。 ロレンゾのご冥福をお祈りいたします。 Lorenzo Soria , president of