PHILIP SEYMOUR HOFFMAN 2023


 PHILIP  SEYMOUR  HOFFMAN  2023


7月23日(日)

今日はフィリップ シーモア ホフマンが生きていたら56歳のお誕生日。9年前の2014年2月4日にたった46歳でクスリの過剰致死とニュースで知った時はショックでしたが、同時に、やっぱり生き抜ける皮膚の厚さが欠けていたのだなあ、と思ったりもしました。

初めてトロントのパーテイーで会った時の気さくで、ハッピーで、無頓着で、即座に見せる愛嬌たっぷりの笑顔のフィリップは、ワタクシのことをジョークたっぷりに「セクシー」と呼んでお互いにくすくす笑い合ったりして、以来、暫くの間 いたずら仲間のような親密な友情を築きました。

「マイ ライフ マイ ファミリー」THE SAVAGES(07)の時のインタヴューではびっくりするぐらいの不機嫌さで現れ、ハリウッドの浅薄な、お世辞垂れ流し文化の明らかに抵抗している印象を受け、オスカー俳優のプレッシャーに歪み始めているフィリップを見てしまったのです。

亡くなった直後にキネマ旬報に寄稿した記事をページの終わりに載せましょう。ナマの原稿のままなので、雑誌に載ったものとは少し違います。


多くの人が彼との想い出を発表しています。

彼との結構リスキーな会話や、打ち明け話など公表したいところですが、まだまだ彼のレガシーも生々しく、息子のクーパーCOOPER HOFFMAN が俳優として成長していく段階ですから、胸にしまっておきましょう。

彼の出身地、ニューヨークのロチェスター ROCHESTER にあるジョージ イーストマン GEORGE EASTMAN 美術館にスイス人の彫刻家が創った彼の銅像が建っています。「イーストマン コダック」で有名な写真ビジネスの創始者を記念にした美術館で、構内にある劇場の横を歩いているという想定のポーズが、とてもフィリップらしくいつか訪ねてみたいと思っています。


まだ、ハリウッドのデーモンに取り憑かれる前。






1999「リプリー」初々しい頃。






ブラの紐が見えて、あら困った。






特徴をよく掴んだカリカチュア





少年の頃。




1992「セント オブ ウーマン」ガキ息子役




ジョージ イーストマン 美術館





構内にある劇場への道



内股歩きがフィリップの動作を的確に表しています。



 彫刻家の名前はスコットランド人のDavid Annand,この男性がそうなのか、分かりません。




母上と。

生まれて育った家。

母上と嬉しそうなフィリップ。



人気雑誌「ピープル」の表紙に。







パートナーのミミ オドネル と。

亡くなる直前のショット。かなりやつれて内面の焦燥を覗かせています。

かわいいフィリップ。姉弟と友達と。

少年時代のフィリップ。

かわいいフィリップ。

フィリップと姉妹と友達達。

あどけないフィリップ。

 





フィリップ シーモア ホフマン


成田陽子


キューピーさんのようなフィリップ シーモア ホフマンが2月2日に突然死んでしまってはや2週間。最初のショックから立ち直れば、やれ発見者の友人は実は、フィリップとはゲイの関係にあった、とか、ヘロインを届けた男の部屋には300袋ものヘロインがあって、目下現行犯で逮捕、さらに警察が徴収した日記から、彼が若く新しい女性の恋人と交際を始めたことで、彼の3人の子供の母親との2重の関係に悩んでいた話、日記の字体が判別し難い程に、当人の苦悩とドラッグ中毒状態を物語っているなどなど、それをすっぱ抜いたタブロイドを批判する他のマスコミ、と嫌な話題がしきりに出て来るが、あまりの急な死だったために、誰もが何かしらのネガテイブな情報を出せば、一種のショックアブソーバーになると考えているのかもしれない。


演技派と言うとデニーロやパチーノ、ハーヴィー カイテル、ダステイン ホフマン(今気がついたら同姓だったが、外見では共通点ゼロ)と言ったダークなイタリー系やユダヤ系の俳優のイメージが強く、金髪にマシュマロのような真っ白な肌、まん丸な顔に小太りの体型のフィリップは,硬派の演技派のイメージからほど遠かった。それだけにより人々に親近感を与え,まんべんなく愛されたと思う。(ローリング ストーン誌は表紙をフィリップに急遽差し替え、もともとの表紙に載る筈だったドレークが怒り狂ってフィリップの表紙につばを吐きかけた、と言う、酷いニユースもあるが)


まだたった46歳、既に公開が決まっている「ア モスト ウオンテッド マン」(原作はスパイもののトップライター、ジョン ルカレ。ドイツのハンブルグを舞台にロシア人の若者を巡る国際スリラーでフィリップはドイツ人のマスタースパイを演じている)、「ゴッズス ポケット」(テレビシリーズ「マッド メン」のロマンスグレーのジョン スラタリーの初監督低予算映画)、それから「ハンガー ゲーム:モッキングジェイ」1部と2部(ヘッド ゲイムス キーパー、プルターク ヘヴンスビーの役)、テレビ映画「ハッピーッシュ」(HAPPYISH)のパイロット版と5本もの作品を殆ど終了していると言うこれからも画面で,あの愛すべきキューピー面が出て来るという嬉しいような悲しい状況にどう反応したら良いものか。おまけに、エイミー アダムスとジェイク ギレンホールを使って「EZKIEL MOSS 」と言う映画を監督する予定で、そのためにエイミーは想い出を聞かれて泣き崩れてしまった。

今、嬉しいことと言ったら、2月16日のBAFTA(英国アカデミー賞)で主演女優賞を受賞したケイト ブランシェットが「フィリップ!我々俳優たちのハードルを高くしてくれてありがとう。この賞は私の親友のあなたに捧げます!」と言う友情と感動のスピーチ。会場のスターたちの目もじーんと赤くなっていた。


それにしても、締めくくり無しに逝ってしまったフィリップの想い出を書くなどとは夢にも思わなかった。50歳になったらこのページに登場させて、愛情たっぷりに、楽しい人となりを書くつもりだったのに!!


初めて会ったのは1997年,「ブーギー ナイツ」の、男性ポルノスターに恋する下っ端撮影クルー言う役で、ゲイの若者を愛嬌たっぷりに怪演。彼が出て来ると場面が、100ワット電球が10個ぐらい付いたようにぱっと明るくなり、恋に破れ、口惜しさと恥ずかしさに居たたまれず、車の中で号泣するシーンは圧巻だった。トロント映画祭のパーテイーで声をかけると昔から知っているように気さくに答えて「ハーイ! どう?食べ物美味しい?映画良かっただろ」などと会話が始まり、またたく間に仲良しに。どこかタガが緩んだような服装とゴムまりのような体に弾んだステップで、ブーギー ナイツのスコッテイーそのものだった。

99年には「フローレス」と「リプリー」で2回もインタヴユーし、長年のお友達のような自然体で、スキンシップも豊かに、ほのぼのとしたつながりを持つようになり、わたくしめを「ハーイ セクシー!」などと呼んで、おばさんキラーぶりさえ見せたのである。

「名前が長すぎるって?うーん、僕と同じ名前の祖父はサイ ホフマンと呼ばれてたな。凄いかんしゃく持ちで、ステイーム(湯気)とも呼ばれていたけど。良い名前だよね。僕は、だから、ステイーム ジュニアと呼ばれたいな」

「リプリーで僕が演じるフレデイーは,ニユーヨークの上流社会の出身で、フィッツジェラルドとか、ノーマン メイラー、それからピーター デューチン(ピアニスト)を頭に描いて、ジャズが好きで、何時もダンスの最中みたいな遊び人と考えた。だから今日の僕はインテリでセクシーなフィルとして出て来た。この間の僕はかなりトラッシー(汚らしい)タイプだったがね。マーロン ブランドがこう言っていた。誰でも何か欲しいときは演技をして、目的に向かうものだ。だから演技は普通の生活にも往々にして存在する。とね。だからリプリーは毎日が演技、僕も今日は洒落た都会人として演技しているのかも」

ちなみにエデイー デユーチンをタイロン パワーが演じた「愛情物語」(56)はわたくすの大好きな映画のひとつ。マンハッタンのアッパークラスの生活がヴィヴィッドに描かれています。


まだ若くてインタヴユーずれしていない彼は、前の会話の内容もしっかり覚えていて、「フローレス」で会った時には女装こそしなかったけれど、まだ女性のふりをするくせが抜けてなかったねーなどとくすくす笑うのであった。

「イタリーのロケは素晴らしかったけれど、いくら舌が落ちそうと言っても毎日毎日、パスタに魚にピザというイタリー料理には参ったね。あの国は他の国の料理は存在してないと信じている。僕の住むニユーヨークだったらどの国の食事でもあるし, 僕はグッドオールド アメリカンボーイだから5週間も経ったらハンバーガーとかに飢えてしまうもの」

「僕はトム クルーズでもマット デーモンでもないから、プレミアに家族全員連れて行くなんて無理と説得して、最初の2回に母を連れて行ったら「マグノリア」の時はトム クルーズにまるで、トムのイヤリングにでもなったみたいに引っ付いていて、30分以上ぼーっとしているから、”マー。もう家に帰らないと。マー、もう行かないと!”とぐいぐい引っ張らなければならなかった。僕の家族は非常にカラフルで、殆ど精神異常なんだよ。育ったのは,ニユーヨーク州のロチェスターと言って,白人ばかりのミドルクラスが主流の住宅地で、僕が引っ越したらアッパークラスの住宅地になったのだから!本当だよ!やっとあのガキがなくなったってな感じさ。母は大変なスポーツ狂で、僕のレスリングの試合は何時も応援に来てくれたし、みんなでファイナル フォア(大学バスケ決勝戦)を熱狂的に遅くまでテレビ観戦したりしていた。母は劇場も大好きで、僕に色々な舞台を見せてくれた。そう母はスポーツとシアターに情熱をかけていたね」

トム クルーズのイヤリングと言われた母御は弁護士で社会運動家、父親はゼロックスの重役だったがフィリップが9歳の時に両親は離婚,姉のジルは家庭教育の教育者、弟のゴードンは脚本家、妹のエミリーは看護婦、と、全員が知的職業に就き、それぞれの道を歩んでいるあたりが、精神異常とかカラフルと愛情深く形容される所以なのだろう。


少し飛んで「カポーテ」(05)の会見でのフィルを紹介しよう。

「役にのめり込まなくては不可能な役が有る。カポーテはそのひとつで,精神の居場所、体の動き、声をキープしていないと戻るのが大変だからね。約5ヶ月かけて準備をし、特に、カポーテの声を探し、そのトーンとリズムを自分の身につける努力が必要だったから、その間はかなり没頭していた。撮影が始まってからは撮影の間はずっとカポーテを続け、家に帰ったら肩の力を抜いてリラックスするように努めた。絶対に物まねだけはしたくなかった。そうでなければ頭が変になってしまうもの。色々な番組でのカポーテを見て、彼が大変なPRマンだと言うこと、創作力の凄さ、アーテイストとしての飢餓感に驚いた。67年頃の35分のテープがあって、彼がひとりでグラス片手にしゃべること、しゃべること。部屋の中には床から天井近くまで彼の本が詰まれ、しかしよく見ると下の方は箱で、彼の視覚効果を狙ったPR作戦が覗けたりね。カメラマンのリチャード アヴェドンが亡くなる前、僕も知り合いだったのだが彼からカポーテの人柄とかスタイルなどを詳しく聞く事が出来たのもラッキーだった。アヴェドンの生々しい写真が二人の仲を裂いたのだよ。カポーテはもっと良く見える写真を要求したが芸術家のアヴェドンは妥協せず、最も醜く見える写真を撮ったとカポーテは非常に怒っていた。そう言うナルシストの虚栄心も強かったという事実も興味深いだろう。

体重を減らす努力も辛かった。役のオファーが来た時、僕はガールフレンドが妊娠中で一緒に妊娠しようと二人で太り始め、200万ポンド位あって、全く仕事のことなど眼中になかったのだから。僕と彼との共通点は肌の色だったね。スーツのデザインに工夫を凝らして、彼の体型をなぞったりと小道具も大いに有効だったが、何と言っても減量が全てだった」

そして翌年06年、アカデミー主演男優賞を受賞したのである。

ほんもののライターが感心した「あの頃ペニー レインと」(09)で音楽雑誌編集長レスター バングスを演じた時の会見に現れた時はまず煙草を吸っても良いかと聞き、もちろん禁煙のホテルの部屋で美味しそうにスパスパと吸って鼻から煙を出していた。

「レスターはアル中でドラッグ問題に悩まされていたにも拘らず、素晴らしい記事を書いていた。自分の悪い点を承知して後輩に注意しろなどと言って、それからまもなく結局ニユーヨークのアパートで死んでしまった。ドラッグ過剰の事故死と言われたが、彼の体にはもう許容量を超えるドラッグがあった筈で、それを知っていて、敢えて使用したのだと思う。あっち側に行ってしまおうとね。まだ37歳で、ちょうど「ブロンデイーの本」を書き終えた後だった。自分の期待に応えられずにブロークンハートを引きずっているライターで、非常に僕に向いた役だったと思う。彼のインタヴューテープを聴いて、僕とそっくりのカデンスでしゃべるのを発見し、ひどく親近感を抱いたし。彼のしゃべりには一握りの南部の訛りがあって、それも使ってレスターを創ったのだよ」

この部分を読み返して、再び寂寥感に襲われてしまった。知っていて敢えてドラッグを使用と言うレスターの自殺願望を見抜いているフィリップの「あっち側に行ってしまおう」を理解するところに。37歳も46歳も五十歩百歩の中堅のレベルだし。

そしてキャメロン クロウ監督が撮影中に主人公の少年に戻って、自分で経験したレスター バングスとの会話を夢中になった語りだし、挙げ句の果てにフィリップを固く抱きしめた話も今想い出すと実に寂しいではないか。(ちなみにこの映画はクロウ監督の自伝でもある)

約10回の会見と、見事な舞台、そしてもろもろの出会いをして来たが、実は最近のフィリップはかなり気難しくなって来て、しかしそれも、とびきり才能のある俳優の成長の過程の典型で、この壁を乗り越えると再び、お気楽人間に戻るのである。フィリップは壁を乗り越えようとして誤って落っこちてしまったようだ。大して高い壁ではなかったろうに。わたくしもそのうち向こう側に行きますから、お土産のお酒で一緒に乾杯しましょう。









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