R.I.P. KUNIO NARITA


 R.I.P.   KUNIO   NARITA


前の夫の成田邦夫が12月4日に79歳で逝去しました。

危篤と聞いて11月23日から12月2日まで日本に行って帰ってきた翌日(日本時間と差があります)の3日に 訃報が入り、娘の誕生日が12月4日なので、最後まで 悪戯をしてあばよ! と去ってしまうなど、彼らしいなと苦笑したり、娘と彼女のパートナのマイクの再びの日本行きの予約やらに気が急く毎日なのです。

1944年11月21日に東京に生まれ、大田区の蓮沼で育ち、暁星学園に入学、高校3年生頃に知り合い、彼は成蹊大学へ。私は1年遅れて同じ成蹊大学へ。

邦夫氏はゴルフ部、ワタクシは英語部、演劇部、それからアメリカン フットボール部などに入って、学園生活を大いにエンジョイしました。身長が高く、グッドルッキングな邦夫氏はキャンパスでは目立った存在で、おまけにメルセデス ベンツのツードアのスポーツタイプの外側が黒で、中のインテリアがレザーの赤という車に乗って学校に来ていたのです。

ワタクシもお洒落で、派手な格好ばかりして、キャンパスでは評判のカップルでした。

お昼時に近所の中華そば屋などに行かず、車をぶっ飛ばして青山のパンケーキ屋やら、六本木のレオス デリカテッセンなどに行く、とんでもなくリッチな家のドラ息子たち とつるんで、全くリッチではないワタクシは、ルンルンとスキップするように付いて行ったものです。

もちろん、普段はフットボールの選手と一緒に大学近くの中華そば屋でレバニラにラーメンなどを食べたり、吉祥寺のお汁粉やさんで女子組と甘いものを食べたりもしました。

ゴルフ、野球(暁星ではキャッチャーだったのです)、狩猟 (冬になると伊豆やら、福島の山に行ってはイノシシ、野鳥を獲物に持って帰ってきたものです)、そしてまず電車に乗らない車オンリー人間でした。ですからタクシーの運転手以上に道を熟知していました。

大学を出てから婚約、結婚はハワイはホノルルの高名なアカカと言う牧師さんの教会で、披露宴はカハラ ヒルトン、そして新婚旅行は、まず、アメリカン サモア、ともう一つのサモア、それから、タヒチ、ここでは日本から映画スターが来たと騒がれた、面映ゆい思い出が、豪州はシドニーとメルボルン、そこからタイのバンコック、香港、などなどのアジアの国を回るという、長い、長い旅行でした。

邦夫氏の手の甲に毛が生えていたので「ゴリラみたい」を短縮して「ゴリ」というあだ名で近しい友人は呼んでます。

五反田の池田山のマンションでの暮らしは、72年に娘が生まれ、自由で、快適で、豊かなものでしたが、7年経って(「7年目の浮気」SEVEN YEAR ITCH (55)という映画がありました)、ワタクシはアメリカに行きたいと言い出し、78年に娘を連れてロスアンジェルスに来てしまって、今に至ります。

勝手気ままなワタクシを気楽に応対してくれて、外から見るとちょっと不思議なカップルだったと思いますが、それなりに楽しい生活を送りました。ありがとうございます。

大昔の大量の写真はアルバムの中、倉庫に眠っていますが、手持ちの数枚をご覧に入れましょう。


ゴリのご冥福を心からお祈りします。



懐かしいソファ、懐かしいベスト、まだ、あどけない娘です。

電子レンジが見えます。

赤ちゃんの時の娘。

懐かしい藤の椅子。「エマニュエル夫人」で有名に。


東京の蓮沼の実家の玄関で。娘3歳の七五三。

大学生の頃でしょうか。スキー場で。



1970年 ハワイのホノルル、カハラでの結婚式。


在りし日の勇姿 2011年3月 岡部カントリークラブ


 ゴリ サンタ








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