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Showing posts from May, 2025

CARIBBEAN CRUISE MAY 24 - 31 2025

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  CARIBBEAN CRUISE MAY 24 - 31  2025 5月24日から31日まで、7泊8日のカリブ海クルーズに行って参ります。 昨年行く予定だったのですがハンスの救急車騒ぎで中止、やっと再びのトライ、全てが事なく進みますように。 この船に乗るために5月22日にロスを発ち、23日にフロリダ州のフォートローダーデール FT. LAUDERDALE に到着、ホテルに泊まって、24日の航海に合わせます。 そして、31日に船旅が終わるとその日は又、フォート ローダーデールに泊まって、6月1日にロスに戻る予定。 既にフォートローダーデールのホテルに居りますが昨夜は雷雨があってホテルの退屈なレストランで陸の上での最後の夕食を取りました。 クルーズ船ではケチってワイファイを買わなかったので、陸に寄らない時はネットが繋がりません。1日ふたりで120ドル、7日間ですごい金額になります。今までの画面ばかり見ている生活から大変化が始まります。毒を消すデトックスとも呼ばれていますから、目に、頭に、精神に、清浄効果をもたらすと期待しています。 では行ってて参ります。 ホテルのプールで。 ホテル近くのスナックショップ ホテル内のレストラン「」バーテンダーが映っています。 マルガリータで乾杯 嬉しそうなハンス。 ホテルのプール クルーズ船の港の入口 ホテルの部屋からの眺め。

GUSTAVE CAILLEBOTTE AT GETTY MUSEUM

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GUSTAVE  CAILLEBOTTE  AT  GETTY MUSEUM 5月9日(金) 前回ロスに来たときから娘が行きたがっていたゲテイー美術館の「グスタフ カイユボッテ」の展示を観に行きました。 晴天の日、早めに行ったせいか、駐車場もシャトルもすぐに空きが見つかってスイスイと丘の上の建物に入って行くと目の前に大きなポスターが見えます。副題が「ペインティング メン」PAINTING MEN とあるように絵画の99%は男性がモデルで、既に新聞の記事などは「グスタヴはゲイではなかったのか!」と言った疑問が出ていました。 カイユボッテは 1848年8月19日にフランスのパリに裕福なブルジョアの家に生まれ、最初は法律を目指して、弁護士の資格を取ったり、技師の技術を身に着けたりしましたが、結局好きな絵画の道を選び、同時代の印象派の画家たち、モネ、ルノワール、等が、たおやかな女性を多くモデルにした時に、彼は男性ばかり描いていたのです。 服を脱いでいる裸の男性の絵など、ダイナミックで画家の男性の体に対する憧憬、愛情が強く感じられます。 他の貧乏画家と違ってお金を稼ぐ必要がなかったカイユボッテは絵を売らずに、それどころか、困っている画家たちを助けたりするパトロン的な存在でした。 男性的な趣味が好きでボート、ヨット、庭園づくり、などにも精を出し、外出は男性の友人か、仲良しの弟のマーシャル MARTIAL とばかり、展覧会場を回って、最後の方になって、やっとソファの上の裸婦、と、彼のもとにずっと付き添っていた11歳年下で彼よりずっとロウワークラスのシャーロット バーシアー CHARLOTTE BERTHIER という女性と彼女の愛犬が少しだけ登場します。 自分の絵画が当時の人々にはスキャンダラスすりぐと知っていたカイユボッテは友人たちに自分の死後の絵画の扱い方などを指示し、1894年2月21日、ジェネヴィラース GENEVILLERS と言う街でたった45歳で亡くなりました。 巨大な財産は文化のため、同志たちのため、親族のため、シャーロットのため、などにしっかりと受け継がれたそうです。 ちなみに次の開催地はシカゴで、ここでは「男たちばかり描いた画家」という副題を取り除いたと記事にありました。 屋敷のベランダから通りを眺める友人の後ろ姿。私の唇が歪んでい...

CUBAN DINNER

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CUBAN  DINNER 5月7日(水) ユキの家で超満腹になって帰って来て、さてハンスと娘は夕食の時間でかねてより、試したかった近所のキューバのお料理のレストランに行くことに。お料理をする気力もなく、今更、しつこそうなキューバンも困ったなと思いつつ、母親とパートナーとしての犠牲的精神で「エル リンコン クリオロ」 EL RICON CRIOLLO と言うレストランへ行きました。 以前に既にオーナーのジェイソン JASON とハンスはおしゃべりしていたので、常連のような顔で入っていきます。実はこのレストランは去年までカルバーシテイー CULVER CITY にあって、今までに2度ほど訪れたことがあり、ある程度内情は知っていると言えましょう。 中に入るとかなり繁盛していて人ごとながらほっとして、大テーブルで友人たちをもてなしている風のジェイソンに「まだワインは駄目なのですか?」と聞くと、首を横に振って「でもウチのワインをサービスしますよ」という返事。えー、何杯も飲んでも良いのかしら?と思いましたがどちらにしろ、食欲も飲む気分も失せているワタクシには関係ないのでメニューをチェックします。 イカとシーフードとイカ墨ライスを選ぶと、いつもはチキン嫌いの娘が「ローステッドチキン」をオーダー、「キューバ料理のチキンは美味しいと聞いているから」が理由だそう。ハンスはここぞとばかり、リッチな「オックステール」(牛の尻尾の肉)を注文、ハンスと娘は赤ワイン、ワタクシは白ワインを頂きます。イカライスはイカがほんのちょびっとでがっかり、ま、食欲がないので適当につまんで、残りはテイクアウトにしてもらうことに。お客様な入れ替わり、立ち替わりに入って来てこんなに目立たないお店なのにラッキーだなあ、と思いました。 満足した3人はゆっくりと歩いて家まで帰ります。 日本美女会のランチ、混雑したフリーウェイ、そして娘の帰宅とキューバの食べ物、と、この日は非常にエネルギーを要した日となりました。 娘はニューヨークから飛んできたばかり、ワタクシは巨大なランチを食べてお疲れ。 だるい顔のワタクシたちと違ってハンスはいつものように、ごきげんです。 例の安物ルックのピンクの上着を着用。目の前のお料理はイカ ライス。 まだ酒類ライセンスの許可が降りてないのでワインは無料!! 時差で首が曲がっている娘。お店...

MY MOTHER'S 100TH BIRTHDAY!

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  MY MOTHER'S 100TH BIRTHDAY! 5月16日(金) 母が生きていれば、今日 100歳になります。 雲の上で母は、「ははは!」と笑っていることでしょう。 1925年5月16日 東京生まれ。麻布で育ち、小学校は麻布のどこか、中学から高校まで東洋英和女学院(祖母は最初 聖心女学校に入ったものの、生徒が派手すぎて英和に移ったと聞いてます。というわけで祖母と同じ学校に入学、妹(私の叔母)も続いて入学、そして私も同じく、と3代英和っ子なのです。 西洋文化に精通していたために誰もが受ける種痘の位置を赤ん坊だった私の腕の外側でなく、腿にするように医者に頼んだのも今考えると素晴らしい行為ですが当時はかなり白い目で見られたことでしょう。ですから私の二の腕には種痘の跡がなく、腿にあります。 日の当たる縁側で赤ん坊だった私が落っこちて下の石におでこをぶつけ、跡ができてしまい、せっかく腕の種痘を移したのにもっと見える顔のおでこに凹みが出来てしまったとひどく悲しんでいました。 さて、年老いてからの母はもっぱら孫娘の教育に熱心になり、会社を引退してからは私たちの住んでいるロスアンジェルスで1年のうちの殆どを過ごし、パンを焼いたり、隣近所に日本人の若いママがいたりするとベビーシッターをしてあげたり、孫の宿題やら、ピアノの練習を助けてくれて、そのおかげで孫娘は優等生になって、中学、高校と卒業式に代表でスピーチなどをしていました。 母の言った言葉で今思い出すのは「ドアを開け閉めする時には必ず手を添えて」、山の手育ちでしたから日本語の発音とイントーネーションにもうるさく、加えて、丁寧語ばかりでなく、謙譲語などの使い方にも激しくて、うちに電話がかかって来ると張り切って応対に出て、かけてきた知人たちは一応に「あなたのお母様の話し言葉がエレガントで綺麗で聞き惚れました」などと言ってました。 天邪鬼、へそ曲がりの私は母の話し方、クラシック音楽愛好、などなどに反抗して、下町風の喋り方をしたり、美空ひばりやら歌謡曲をわざと聞いたりしていたものです。 86歳頃から老人ホームに一緒に行ってはピアノ付きでも入居できるところなど探しましたがどれも気に入らず、ワタクシは焦るばかりでした。 最後に入っても良いというホームが見つかり、準備のために下着に氏名をマジックで書くことになり、やりたくない...