GEORGE FOREMAN 1949-2025
今年の3月21日にテキサス州のヒューストンの病院で家族に見守られて76歳で亡くなったジョージ フォアマンとは、何度か楽しい時間を一緒に過ごしたことがあります。ちなみに死因は発表されず、今までの過酷なボクシング人生でほとんどの臓器が破壊されていたためだそう。
さてジョージに初めて会ったのは1979年の1月のはじめ、その頃は報知新聞の現地レポーターとして張り切っていた私はテキサス州ダラスで行われた「コットン ボウル」COTTON BOWL を取材、当時ノートルダム大 NOTRE DAME のスタークオーターバックだったジョー モンタナ JOE MONTANA の奇跡的勝利をサイドラインで見ていたのです。対戦相手はヒューストン大で風邪を引いていたにも関わらず、モンタナは大活躍、彼はその後サンフランシスコ フォーテイーナイナーズ SAN FRANCISCO 49ERS で大スターとなりました。今はもう引退, グッドルックスだったこともあって、タレントとしてコマーシャルなどに登場しています。
その報知新聞からダラスからルイジアナ州 LOUISIANA のシュリポート SHREVEPORT に行ってボクサーから引退して伝道師になった、当時30歳のジョージ フォアマンにインタヴューして来い、というお達しが出て、怖いものなしのワタクシは大田舎町まで繰り出したのでした。どうやって彼と連絡を取ったのか覚えてませんがおそらく本社の記者が電話番号など入手したのでしょう。眠そうな南部の街で彼の家を探すのは大して難しいことではなく、優しく迎えてくれたジョージにインビュー。プロに戻るつもりはないとこの時は決意の程を語っていました。報知新聞のアーカイブにこの記事があるはずで、もう一度読んでみたいものです。
インタヴューが終わると「夜ご飯につれてってあげる」と言われ、ちょっと不安な気分もありましたがそこはまだ若くて、勇敢な記者だったワタクシですから一緒についていくと街のレストランで地元名物の揚げナマズ(キャットフィッシュ CATFISH と呼ばれています)を食べさせてくれました。レストランでは街の人気者で注目されていましたが、彼自身はそれほど、スター意識を持ってませんでした。味はよく覚えてませんがまあ、まあ、美味しかったと記憶しています。以来、キャットフィッシュは食べてません。ちょっと泥臭いので苦手なのです。
そして、約束とは裏腹にジョージはリングにカムバック、最初にラスベガス LAS VEGAS の試合でプレスイベントに行くと大勢の男性記者に囲まれていたジョージはワタクシを見つけると手招きして「このジャパニーズ レポーターはシュリポートまで私に会いに来てくれたのだよ!」と言って抱きしめてくれるではありませんか! もちろん彼の大ファンになり、次のアトランティック シテイー ATLANTIC CITY での試合では彼の顔が大描きされているTシャツを買ったほど。いつもですとこういうお土産っぽい品物はまず買わないのです。それから数試合取材を続けましたが、ジョージは油を滴らせて健康なステーキを作る料理グリルを売り出し、瞬く間にビジネスで成功、チャーミングな笑顔を振りまいてタレントに移行していきました。
若い時の試合前後の厳しい表情とビジネスで成功したジョージの顔と比べて下さい。別人のように柔らかで穏やかになってます。聖書から何かを感じて伝道師になった過去のスピリットが顔に出てきたのかもしれません。
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ジョージが載っているTシャツ。マリオ ヴァン ピーブルス(左)とジャッド ネルソン |
ここからはチャットGPT に書いてもらったジョージの半自伝です。実に良く書けていると思います。
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歴史的なモハマッド アリ との試合。 |
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若い頃のジョージ。 |
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すっかり柔らかくなったジョージ。 |
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ジョージの商品、グリル。 |
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カメラを構えるとこのポーズが出てくるボクサーが多いのです。アリと。 |
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おそらく最後の奥方。メアリー マーテリー。 |
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1968年のオリンピックに出場 |
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伝道師、ジョージ。 |
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ワンちゃん大好き、特にシェパードが。 |
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若い時のジョージとシェパード。 |
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少年時代。 |
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若いジョージとシェパード |
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1968年オリンピック「ブラック パワー」の表彰台。トミー スミス、ジョン カルロスと豪州のピーター ノーマン。 |
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子どもが合計12人だそう。幸せそうです。 |
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