MY MOTHER'S 100TH BIRTHDAY!

 MY MOTHER'S 100TH BIRTHDAY!


5月16日(金)

母が生きていれば、今日 100歳になります。

雲の上で母は、「ははは!」と笑っていることでしょう。

1925年5月16日 東京生まれ。麻布で育ち、小学校は麻布のどこか、中学から高校まで東洋英和女学院(祖母は最初 聖心女学校に入ったものの、生徒が派手すぎて英和に移ったと聞いてます。というわけで祖母と同じ学校に入学、妹(私の叔母)も続いて入学、そして私も同じく、と3代英和っ子なのです。

西洋文化に精通していたために誰もが受ける種痘の位置を赤ん坊だった私の腕の外側でなく、腿にするように医者に頼んだのも今考えると素晴らしい行為ですが当時はかなり白い目で見られたことでしょう。ですから私の二の腕には種痘の跡がなく、腿にあります。

日の当たる縁側で赤ん坊だった私が落っこちて下の石におでこをぶつけ、跡ができてしまい、せっかく腕の種痘を移したのにもっと見える顔のおでこに凹みが出来てしまったとひどく悲しんでいました。

さて、年老いてからの母はもっぱら孫娘の教育に熱心になり、会社を引退してからは私たちの住んでいるロスアンジェルスで1年のうちの殆どを過ごし、パンを焼いたり、隣近所に日本人の若いママがいたりするとベビーシッターをしてあげたり、孫の宿題やら、ピアノの練習を助けてくれて、そのおかげで孫娘は優等生になって、中学、高校と卒業式に代表でスピーチなどをしていました。

母の言った言葉で今思い出すのは「ドアを開け閉めする時には必ず手を添えて」、山の手育ちでしたから日本語の発音とイントーネーションにもうるさく、加えて、丁寧語ばかりでなく、謙譲語などの使い方にも激しくて、うちに電話がかかって来ると張り切って応対に出て、かけてきた知人たちは一応に「あなたのお母様の話し言葉がエレガントで綺麗で聞き惚れました」などと言ってました。

天邪鬼、へそ曲がりの私は母の話し方、クラシック音楽愛好、などなどに反抗して、下町風の喋り方をしたり、美空ひばりやら歌謡曲をわざと聞いたりしていたものです。

86歳頃から老人ホームに一緒に行ってはピアノ付きでも入居できるところなど探しましたがどれも気に入らず、ワタクシは焦るばかりでした。

最後に入っても良いというホームが見つかり、準備のために下着に氏名をマジックで書くことになり、やりたくないことなので、手を付けない母の前でワタクシが乱暴にマジックで、下着に名前を書いていた光景はいまだに、忘れられず、心が痛みます。結局ここも最後になって断ることになり、2014年2月21日 大雪が降った朝にお医者様からもらった睡眠薬を密かに貯めて、自殺。88歳でした。

午前10時頃に訪れたヘルパーさんの通報で従姉の貞子ちゃんが病院などの手続きをして、ワタクシと娘は翌日の飛行機で母のマンションへと向かいました。

激しく独立心が高かった母には、老人ホームの人々の虚ろな目や淀んだ空気がどうしても嫌だったのでしょう。

今は、天国でショパンなど聴きながら孫娘の幸せと健康を見守っていると信じています。ワタクシのことはもう放ったらかしても大丈夫と高を括っていることでしょう。



住んでいたマンションの近くで。


大好きなピアノと。


女優の杉葉子(右端)さんと。

86歳頃。


昭和20年、帝国ホテルで結婚式。

マンションのドアの前で。

上はウッドランドヒルズの家の庭で愛犬、スキと、下はロンドンのホテル。



上はサンフランシスコ、下は愛犬スキと。



母、ワタクシ、叔母、祖母

KDD勤務時代の母

逗子に住んでいた時。

大船のスペイン料理レストラン「ブランコ」で。

80歳のお誕生日。バークレーの「クレアモントホテル」で。

アリゾナのツーソンでの西部劇パーテイー、ハンス、母、隣の男性の名前失念。

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