YOKO NARITA'S HOLLYWOOD

ハリウッドのスターをインタヴューしてもう38年!!   ツーショットと来たらどっさり ざくざく。最近は映画の記事も減ってきて発表してないお宝が貯まる一方。貯金は減る一方ですが、ともかく つたないブロッグ で全く為にならないお話と とっておきの古い写真とか新しいものも載せていきたいと思ってます。古いページは、スターの名前を英語で左上で検索すると出てくるはずです。
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Wednesday, May 16, 2018

MOTHERS DAY AND MY MOTHER'S BIRTHDAY

MOTHERS DAY AND MY MOTHER'S BIRTHDAY

今日5月16日は母の93歳のお誕生日です。
でも母は88歳で亡くなりました。
いつも母の日とお誕生日が同じ日に近いので、しっかりと思い出します。

私が2歳の時、海軍の士官で零戦飛行士だった父と離婚、それからキャリア ウーマンとしての生活を送り、祖母と私たちの生活費から、私が通った私立の学校(大学まで!)の学費、ピアノのレッスン、などなどを稼いでくれました。

スポーツも万能で優等生だった母は好奇心が強くて、興味を持ったことにはのめり込み、興味が無いことには全く関心を持たないという自分勝手な博識で、ピアノと読書、特に司馬遼太郎が大好き、晩年になると無機質な現代小説を敬遠して、人情あふれる池波正太郎や藤沢周平の時代劇を好むようになりました。
古い地図帳などを買っては、歴史の名所、特に東京、いえ、江戸の下町などをテレビの紀行シリーズなどと照らし合わせて楽しんでいました。

母が働いていたために私は祖母に育てられ、子連れだと仕事先に余計な懸念を抱かせると戸籍上も祖母の子供となり、中学校に入るまで祖母が母だと信じて育ったのです。
祖母は20歳の時に母を生み、母も20歳の時に私を産んだので、祖母と私はたった40歳違いでしたから、「おばあさんのようなお母さん」という感じではありませんでした。

日露戦争で活躍した斎藤七五郎と言う曾祖父から帝国海軍士官学校卒が代々と続き、祖父は岡田為次と言う少将でした。終戦は私の家族は英国式の生活を取り入れて、テーブルと椅子のダイニング ルームで寝るのはベッド、朝食は紅茶とトーストにジャム、まだ終戦直後ですから近所の人が不思議な目で見ていました。こう書くと豪華なようですが、戦時中には結婚指輪から、塀の上の鉄柵までお国の為に寄付し、清貧潔白な、ほとんど貧乏生活でした。
祖母が母のお下がりの事務服を着て学校のPTAに現れて、英国の淑女たちのように帽子をかぶったりの正装をしている他の母親たちの中で平然と威厳を保っていたのが、恥ずかしかった記憶があります。
今思い出すと、母も祖母も時に「わざと変な格好をして現れて、みんながおしゃれをしている中で、虚栄心の反対の露悪心みたいなへそ曲がりの姿勢を見せていたのではないかと疑っています。祖母は少しはちゃんとした着物など持っていたのですから。
その反抗心は私にもしっかりと流れていて、気取った人々の中に入ると、それを搔き回すような行動を取ってしまうのです。

祖母は聖心女学校に入学したものの、軍人の家族の雰囲気とは相容れなかった為に、東洋英和女学校に転校し、母も母の妹も私もここでプロテスタントのメソヂスト教のもと「良妻賢母」の教育を受けました。
3代続いた英和でしたが、私の娘の時は幼稚園の入試に落ちて、ここでちょん切れてしまいます。

母は気位が高くて、独立心が強く、かなりエリート意識があり、自分勝手で、わがままでした。近所づきあいなどまずしない、孤高の人の生活を好んでいました。

生涯ピアノを弾く生活を続け、若い頃は日本舞踊を習ったり、スペイン語のレッスンに通ったり、歳をとってからは合唱グループに入ったり、常に古典文化を学ぶ姿勢を保っていました。言葉遣い、マナーにうるさく、テレビから流れてくる下品な流行を避け、汚い言葉を聞くとすぐに消してしまいます。

記憶が曖昧になって、ピアノの譜が読めなくなった頃、いろいろ探して、やっと承諾した老人ホームの入居手続きをした2ヶ月後、2014年の大雪が続いた2月の21日の朝、
母は貯めてあった睡眠薬を服んでこの世を去りました。

老人ホームに行くために、下着に自分の名前を書く作業を命令調で「全部に書いてね。早くしてください!」と私は苛立たしく母に言いました。
母は黙ってカタカナで懸命に名前を書いていました。
ありとあらゆる上着やコートのポケットには自分の名前と主治医の名前と電話番号が書いてある小さな紙切れ「迷子札」を駅でもらうテイッシュ ペーパーの小さなビニールの袋に入れて、突然の記憶喪失に備えていました。

最後の頃の母との思い出は、私がイライラしてばかりで、良いものではありません。
母はそれでもニュージーランドに住む従妹に電話しては
「娘はとっても優秀で良い子なのよ」と褒めていたそうです。

どこが良い子で、優秀なのか、今もって私には分かりませんが、未だに午後の5時ごろ(日本時間の朝9時ごろ)になると「ああ、日本に電話しなくちゃ」という義務電話の習慣が蘇ります。

あの戦争で絶対に死ぬと覚悟した母は戦後の暮らしをボーナスと考えて、いつ死んでも悔いなし、絶対に人の迷惑にならないように生きるべきと信じていました。そう言う覚悟を私も受け継いだような気がします。

終戦直後の帝国ホテルでの結婚式。


アメリカのウッドランド ヒルズで大好きな木陰に居るスキと。

老人ホームを決めた直後。大船のスペイン料理レストラン「ブランコ」で。

80歳のお誕生日はバークレーのクレアモント ホテルで。

大船の自宅マンションの部屋。



目立つようにと黄色をよく着てました。

ウッドランド ヒルズの自宅のテラス。左からスキ、母、ハンス、娘。

上はアリゾナ州ツーソンでの西部劇パーテイー。下はハンスとスキと母。


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