JAPAN BOWL 1976

 JAPAN  BOWL  1976


今から44年前の写真が出てきました。

「ジャパン ボウル」というアメリカン フットボールの試合を日本で決行、東部の大学と西部の大学のオールスター選手を集めて本場の激突、スピード、巨大な肉体がぶつかり合う地響きと轟音を見せてやろう、というイベントでした。

実は全てがうろ覚えなのですがプロモーター(呼び屋と言われてました)が藤田プロと言う制作会社で親分は「マムシの藤田」と呼ばれる、噛み付いたら離さないビジネス根性で有名で何度か会いましたが、まさに映画に出てくる水商売の親分のようなコワモテの存在感たっぷりでした。

試合の後のパーテイーが(おそらく)品川プリンス ホテルで開催され、関係者、監督やら大学側の体育ビジネスの人々、選手たちにチアリーダーたち、などが招待されて、ワタクシは彼らの取材のために行ったのです。

ここで会ったのが、ジャック坂崎氏 と 川田太三氏、それぞれ、カルフォルニア大バークレー CALFORNIA BERKELEY とオハイオ州立大 OHIO STATE でアメフットをプレイしていた体格の良い紳士ふたり。既に大会役員として重要な立場で働いていましたが後にジャックはナパバレーでワイン ビジネス、川田氏は日本ゴルフ界の重鎮と、お二人とも成功して、悠々自適の生活を送っている様子。


スター選手はピッツバーグ大 PITTSBURG のトニー ドーセット TONY DORSETT 、USCのリッキー ベル RICKY BELL 、オクラホマ大 OKLAHOMA の巨大なラインバッカーたち、オクラホマの人々を「スーナーズ」 SOONERS と呼ぶのを初めて知ったり、可愛いチアリーダーたちとも仲良くなったり。


リッキーは1955年4月8日、テキサス州 ヒューストン HOUSTON 生まれ、タンパベイ バッカニアーズ

TAMPA BAY BUCCANEERS で活躍して、血液の病気にかかって1984年11月28日に29歳の若さで死去、弟さんはアーチー ベルとARCHIE BELL 言うミュージシャン。

リッキーは1976年のドラフトで1.2ミリオン ドルというドラフト新人としては史上最高の契約をしました。

1991年にマリオ ヴァン ピーブルス MARIO VAN PEEBLES がリッキーを演じたテレビの「自伝映画」が制作されてます。


トニーは1954年4月7日生まれ、ダラス カウボーイズ DALLAS COWBOYS の花形ランニングバックでした。

スポーツライターの頃の記憶が著しく消え去っていく今、これから少しずつ当時の思い出を書くつもりです。


1976 左が川田太三氏、右 ジャック坂崎氏。







リッキー ベル

リッキー ベル

トニー ドーセット

外国人のイベントになると登場するお振り袖の美女プレゼンター

プレイオフ をサンフランシスコ球場で取材 増田NTVアナウンサー(左)ワタクシ、   後藤完夫さん「タッチダウン」編集長、松田サン(コメンテイター)



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