MY MOTHER'S MEMORY

MY  MOTHER'S   MEMORY


1年前の2月21日に母がこの世を去りました。88歳でした。大雪の日が続いた後、思い立ったように睡眠薬での自決でした。
大好きなピアノもままならず、読書をしてもまるで頭に入らず、テレビも面白くなくなり,わたくしが決めた真新しい老人ホーム入居も義務的に準備などしていましたが,何と言っても、わがままで、余り庶民的なタイプではなかったので乗り気ではありませんでした。
太平洋をはさんでの暮らしも心配をかけないようにと気をつけていたようですが,物忘れのスケールが大きくなり,ありとあらゆる上着やコートのポケットに自分の名前とかかりつけのお医者様の電話番号を書いた紙切れを宣伝用テイッシューのビニールの小袋に入れて、外出に備えてました。頭がぼーっとするとニユージーランドに住む従姉のご主人に電話をして,"気" を送ってもらってました。
たまにヘルパーさんにピアノを教えたり、マンションの管理人さんにお昼をごちそうしたり,出来る限り杖をついて、短いお散歩をし、近くのイトー ヨーカドーで買い物をする毎日でした。
わたくしが来る日には、必ず、トロとアボカドの小鉢を作って待ってました。それから小松菜のおひたしを大きなホタテ貝の入れ物で鰹節と一緒に煮る胃に優しい一品も。

終戦後 女手ひとつでわたくしを私立の女学院から私立の大学まで行かせてくれたキャリアー ウーマンでした。KDD (当時の国際電信電話)の課長として、週一の夜勤もある激しい任務でしたが、ピアノや日本舞踊を習う向上心の高い姿勢を保ってました。
アメリカに来ると孫娘の数学の問題を一緒に解いたり、宿題を見たりと自分なりに英語の復習になると励んでました。
博識で一度読んだ本はまず忘れず、海軍の蘊蓄を始めると滔々としゃべるのがくせでした。
男の子だったら絶対に江田島の兵学校に言って、海軍士官になる筈だったのですから。
ドアを閉めるとき、必ず最後まで手を離さないこと、などなど立ち居振る舞いもきちんとしていました。

今日は、大好きだったショパンとリストのピアノ曲を聴き、クルト ユルゲンスの「眼下の敵」(57)でも観て,しばらくの時間を母と共にしようと思っています。
2013年87歳のとき。入居が決まった老人ホームの近くのスペイン料理レストランで。

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