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Showing posts from July, 2014

ARNOLD SCHWARZENEGGER #2

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ARNOLD  SCHWARZENEGGER  #2 体もでかいけれど,この名前も場所をどっと占領して、存在を主張しているアーノルド シュワちゃんのお誕生日が7月30日でした。 ハッピー バースデー アーノルドです。 彼のアシスタントのヴィデオを載せるつもりですが果たして成功しますか。相変わらずのヘヴィーなアクセントがチャームです。駄目でした。。。 1947年7月30日 オーストリアのグラーツに生まれた彼は,20歳でミスター ユニバースのタイトルを取り、渡米して,大学で経営学や心理学を学び,ボデイービルダーとして実用的なアメリカン ビジネスを学び,名門ケネデイー一家の妻を娶り、映画界にも進出して「ターミネーター」(84)でアクシヨン スターの座に。2003年からは2期カリフォルニアの州知事を努めるというまさにアメリカン ドリームを成し遂げたユニークな成功者です。 前に書いたかもしれませんが,オーストリアのグラーツを訪れた時,オートバーンから降りる場所に巨大なスタジアムがあって,「アーノルド シュワーツネッガー」!と大書きされた看板が球場の上にそそり立ってました。故郷の錦のサイズも彼ならではでしたが、彼がスキャンダルを起こして,もろもろのトラブルが出た後は,違う名前に変えたとか。オーストリアは権力と醜聞に繊細なのですね。 さて先日 ニユーオーリンズに行って,彼の「ターミネーター」第4弾の撮影ぶりを見て来ましたが,いやーこの人程,注目されるのがエネルギーのもと、と言う人を見た事がありません。ミスター ユニバースの裸の露出に慣れているのですから,究極のスター性を持っているのでしょう。 政治的に批判されようが,演技力を指摘されようが,お手伝いに手を出して子供を産ませようが、全くめげずに,前進あるのみ。 ホテルで朝食を食べていたら,トレーニング服のアーノルドが同じ服装のボデイービルダーの仲間とおしゃべりをしていましたが,その親分ぶりとスポーツマンの中で,いとも居心地良さそうな姿に、まず体を鍛えるのが,彼の強靭な精神の基礎なのだなーと思いました。 1988「ツインズ」ダニー デヴィート と。 1993「ラスト アクシヨン ヒーロー」 1995「トウルーライズ」 2003「ターミネーター 3」

ALLEN LEECH

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ALLEN   LEECH アレン リーチと言っても誰も知らないでしょうが,「ダウントン アビー」の元運転手のトム ブランソンと言えば,あーあの可愛いアイルランドの独立運動に燃えて,英国の階級差を乗り越えて,末の令嬢,レイデイー シビルと結婚した俳優!と思い出す筈。 日本では始まったばかりですが「ダウントン アビー」は2011年にスタートして,来年はシーズン5が放映と決まった英国製の巨大人気番組で、第1次大戦の影が迫るヨークシャーの貴族の家庭とそれを支える忠実な執事や下僕や召使いのエピソードを交えたメロドラマです。 アレン リーチは1981年5月18日にアイルランドのダブリンの郊外のリゾートタウン,キリニーにコンピューターシステムの会社社長の父親を持って生まれ,両親は彼に建築家になって欲しいと望んだものの11歳頃から舞台に興味を見せ,アレンは晴れて演劇学校へ。 「カウボーイズ アンド エンジェルス」(03)と言う映画でブレークし,アイルランドの映画への出演がぐんと増します。「ダウントン アビー」の創作者で,貴族出身の作家,ジュリアン フェロウズの作品に出たのがきっかけで,アレンは運転手の役を得たのです。 何しろ究極のメロドラマですから,令嬢がエジプトの貴族とベッドインしたかと思うと彼が急死したり,運転手と令嬢の恋が実って,白い目で見られながら結婚式を挙げ,赤ちゃんが出来たと喜ぶと旧式の医者の頑固な治療法の為にシビルはあっけなく死んでしまったり,従僕が殺人容疑にかけられたり,ゲイの侍従が危ない性的アプローチをしたり,重要な主人公のひとりが突如死んでしまうようなドラマの行方が過激で、批判も勿論出てますが,何とせん,波瀾万丈で面白いのです。 さてやもめになってしまった運転手のトムは,アイルランド訛りも故郷への忠誠心も捨てず,貴族の家族に疎まれながらも物語は進行して行きます。 アレン当人は,有名にしてくれた「ダウントン。。」へは何と言っても感謝の姿勢で,何となく,貴族を演じる俳優や女優たちを支えて,謙虚に持ち上げるような,従順な性格を見せてました。 「僕はテニスが大好きなんだけど,サーヴがどうも上達しなくてね」 などと言った他愛ない話を淡々と話してくれます。サンキュウ ヴェリー マッチがモッチ,スタッフはストッフとアイリッシュのアクセントが又,何とも鄙

JOSEPH FIENNES

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JOSEPH   FIENNES 2012年にこのブログを始めて,2年間で約540人のスターなり,たまさかの旅行記なりを書いて来ました。力を入れずに書いてますので,実は書いた後脳細胞に余り残ってないのです。酷いことにプロとして原稿料を頂いても,かなりさらっと忘れてしまうのですから。 と言うわけで,ジョセフ ファインズを前に書いたかどうか覚えてないのです。インデックスなど無いので,ブログを戻って調べるのもちとしんどいしで,改めて書くことにしました。 もちろん名優,レイフ ファインズの全く似ていない弟ですが,(リヴァー フェニックスとホアキンぐらいに似ていません)態度だけは,エレガントに謙虚なレイフと違って,かなり太太しいのです。 初めて会ったのが「恋に落ちたシェイクスピア」(98)でグエネス パルトローと恋に落ちる貧乏なシェイクスピアを熱演して注目された時。スリムで背が高い体の格好はともかく、濃い髪に眉毛に,黒い目とアラビア人のようで、もしかすると、どちらかの両親の冒険があったのでは?と勘ぐってしまいました。 1970年5月27日,英国はホイットシャーのサリスベリーに6人姉弟の末っ子の双子として生まれ,父親は農民にして写真家,母親は作家、兄(62歳)のマイケルは養子で,考古学者,次の兄がレイフ(52歳),姉のマーサ(49歳)は映画監督,次の姉がビジュアルアーテイストのソフィー(48歳)、それから,作曲家のマグナス(49歳)と双子の片方のジェイコブ(44歳)は狩猟管理人と色とりどりの職に就いている家族の中で育ちました。引っ越しを余儀なくされる環境で 2001    ENEMY   AT   THE   GATE 高校までに14回も転校したとか。 16歳の時に舞台に興味が湧き、大した努力もせずに名演劇学校に入学したのは,アートの血筋でしょうか。 ロイヤル シェイクスピア カンパニー(有名なRSC)で冴えた演技を見せて好評を得ますが,貧乏芸人生活は変わらなかったようです。 2度目にあったのは「エネミー アット ザ ゲイト」(01)でジュード ロウ主演,ジョセフはロシアの兵隊役,第2次大戦のスターリングラードの劇戦が背景の戦争ものでした。兄のレイフと比較されるのを嫌がっていたのが思い出されます。 女性関係も華々しく,2000年頃にはモデルのナオミ 

SEAN PATRICK FLANERY

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SEAN  PATRICK  FLANERY ジョージ   ルカースの猛烈ヒット作「インデイアナ ジョーンズ」シリーズの柳の下を狙って,テレビ版が92年から93年に放映されました。映画の主演スター、ハリソン フォードも張り切ってゲスト出演したりと鳴り物入りのテレビ大作で、若いインデイアナ役に抜擢されたのが甘いハンサムのショーン パトリック フラネリー。 1965年11月11日ルイジアナ州のレイク チャールズに医療用品会社の重役の父と不動産業の母のもとに生まれ,育ったのはテキサス州,高校時代に目当ての女の子を追って演劇サークルに入り,女の子は逃したものの,演劇熱に取り憑かれたというプロセスで俳優になったそうです。 いかにも恵まれた中流家庭の生まれ,グッドルックスに恵まれたショーンは,しばらくアルバイトなどをした後にテレビや映画のちょい役が舞い込むようになり,インデイアナ役を得た時は27歳でした。 「ザ ヤング インデイアナ ジョーンズ クロニクル」と言うタイトル、ジョージ ルーカスが制作を担当して居たので、まるで保護者のように付き添って会見に現れました。自分の若い頃をイメージしたと思われるショーンに事のほか,注意を払っていました。 ショーン自身は余り熱意を持って売り込んだりせず,どうでも良いと言った態度で,若手特有のノンシャランで、無関心さを装っていたように記憶しています。何と言っても輝くブロンドに,スリムな長身ですから、黙っていても女の子(もちろん男の子も)の強烈な関心を引いていました。 このシリーズにはゲストにヴァネッサ レッドグレーヴやエリザベス ハーレーなどのスターが出たりと話題のテレビでしたが2年で終わってます。 そしてショーンは以来B級映画や、最近では「デキスター」(06−13)と言う人気テレビシリーズに出たりで,余りハリウッドの表面には出て来ません。適当に仕事を得て,自分の好きなことをしているという,ハングリーではない俳優の歩み方をしている様子。若い頃から柔道に凝り,ブラジル柔術の黒帯で,弟子たちに稽古をつけていたり、拾った犬が一番最初に食べた為にドーナッツと名付けた愛犬をどこにでも連れて行くと言った生活を送っているそうです。 ジョージ ルーカスは1944年5月14日,カリフォルニア州のモデスト生まれ,つい最近、彼の博物館がシカゴに

SANDRA BULLOCK #2

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SANDRA   BULLOCK   #2 今日7月26日はサンドラ ブロックの50歳!!のお誕生日です。1964年にヴァージニア州のアーリントンにドイツ人のオペラ歌手の毋とヴォイス トレーナーの父親の間に生まれ,小さい頃から母親の舞台に子役で出たりしたそうですが、歌は全く駄目なのですと。余りに専門の親を持った為の謙遜,又は反抗心なのでしょうが。 それにしてもジョニー デップ,ブラッド ピット,トム クルーズ,ニコラス ケージとみんな50歳を超えて,ハリウッドの若手スターの台頭がゼロに近く,今はもう,スター目当てで映画を見に行くのではなく,マシーンの炸裂やスーパーマン達の超人的活躍が目玉なのでしょう。 サンドラは最初こそ「デモリシヨン マン」(93)や「スピード」(94)などでアクシヨン スターとして注目されましたが,直ぐに文芸古典「ラブ アンド ウオー」(96)でヘミングウェイの恋人役(看護婦)を演じたりして演技力で勝負の方向に向かいました。 「私ってじっとしてられない性分だから,今回の役は静かに,沈黙を保っている昔の女性でしょう。体を動かさないと言うトレーニングが必要だったのだから!」 と例のがはがはと言う豪傑笑いで,白状したり、 「父から大工仕事や電気工事,車の整備などしっかり学んだから,そこらの男性よりずっと器用で,便利なのよ。家だって自分で建てようと思えば,建てられるのですから」 とオペラより,力仕事が好きそうなコメントも誇らしげにしています。 約20回ぐらい会っていますが,エレガントなドレスを着ていても、どこかに逞しくて男っぽい雰囲気が漂っています。 入れ墨だらけのオートバイ野郎と結婚したのは一種のタフガイの同士愛の様でしたから,すぐに離婚になりました。黒人の男の子を養子に迎えて,母親業をたっぷり楽しんでいる様子は微笑ましいですが。 宇宙飛行士が限りなく広い宇宙でひとりぼっちになる「ゼロ グラビテイー」(13)もサンドラの頼りになる親分肌があるからこそ、リアルに見えました。 「ザ ヒート」(13)と言う凸凹コンビ(サンドラが真面目でエリートの連邦局のエージェント,太目のメリッサ マッカーシーが、めちゃくちゃなローカルの刑事)の喜劇もサンドラの気丈さを逆手に取って,面白さが倍増しています。 来年は,この「ザ ヒート」の続編「ザ

CHADWICK BOSEMAN

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CHADWICK  BOSEMAN チャドウイック ボスマン と名前だけ見ると貫禄たっぷりの英国人俳優をイメージしますが,実はアメリカは南部出身の若手黒人俳優なのです。 去年(2013)の「世界を変えた男ー42」(原題はただの「42」ですが、わたくすの先輩が邦題を考えたのです)と言う映画で伝説的な黒人野球選手のジャッキー ロビンソン(42は彼の背番号)を熱演して,一躍ハリウッドの新人ラインアップに並びましたが,実は既に舞台俳優としてはベテランで,首都ワシントンでは、ハワード大学で、英国はオックスフォードに渡って,演劇学校でも演劇を学んだと言うそこらの新人とは異なる、真剣な演劇人なのです。 1982年にサウス キャロライナ州のアンダーソンに家具張替え屋の父と看護婦の母のもとに生まれ,子供の時はバスケットボールに夢中だったとか。 「演劇を学んだのは,監督と脚本をやりたかったからで,その為には俳優として演技する経験が役に立つと思ったからなのだよ。しかしトレーニングをしている間にどんどん楽しくなって来た。それでも将来は監督だと思い,そちらは焦点を絞って来たのに、ロスアンジェルスに来てからテレビの役が色々舞い込んできて,今はすっかり俳優専門になってしまった」 と「42」の会見で話してました。知的で,堅実そうで,おまけにスリムな体にハンサムと来てますから、カメラの前での活躍が当分続きそうでした。 そして今年の「ゲット オン アップ」(14)での「ハーデスト ワーキング マン イン ショウビジネス」と言う枕詞で有名なロックンロール歌手ジェイムス ブラウンの役を再び激演。 「この役のオファーが来た時,僕は続けて伝説の偉人を演じるのは,余りにもやりすぎのような気がして,しばらく辞退していた。しかし監督のテイト テイラーが君じゃないと映画が出来ないと強く訴えて来るので,もう一度,偉人に挑戦しようじゃないか、と引き受けたのです。それからの訓練が凄かった。もちろん歌はオリジナルのジェムイムス ブラウンとは言え,ソウルを込めて歌わねばならないし,何よりも有名なダンス ナンバーが超人的な動きだから,苛酷な練習だった。マイケル ジャクソンより遥か前にバックスケートやつま先を上げての歩き,おまけにあのスプリット(両足を180度広げたまま、床に着地する)だろう。スプリットから床に手

APOLLO THEATER HARLEM NY

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APOLLO   THEATER   HARLEM  NEW YORK アポロ劇場はニユーヨークのハーレムにある名高い劇場でスが場所が場所だけに(黒人街),余り普通の人は行きませんが,今まで3回程,試写やプレミアで行く事が出来ました。 今回はジェイムス ブラウンがここで有名になり,亡くなった後,この劇場で追悼ショウが開催されたと言う強いつながりがあるため,彼の伝記映画「ゲット オン アップ」のプレミアも7月21日の夜に1500席のほとんどが埋まって,盛況の中,大成功の公演となったのです。 始まる前に周囲を散歩したのですが,ロスアンジェルスの黒人街のワッツは99パーセント黒人なのに,ハーレムの方はラテン系やアジア人の顔もちらほら混じっていました。 アポロ劇場の近くに,天を駆けているようなポーズの勇ましいな男性の巨大な銅像があって,この人の名前はアダム クレイトン パウエル ジュニア とありました。 後で調べると1865年生まれの政治家で,銅像は白人の顔なのですが、両親共に混血で,彼は黒人とは言え,ほとんど白人(と言うかラテン人のような)整った目鼻立ちで,ニユーヨークから出た初の黒人議員なのでした。大変な政略家で,黒人の雇用を巧みに広げて行ったのです。マーチン ルーサー キングの先導となった様子。1953年に63歳で亡くなったとありました。 劇場の周りにはぎんぎん、けばけばのスーツや靴が並んでいる洋服屋がずらり。わたくしが男だったら,たまにはてかてかに光った赤いジャケットに赤と紫の縞のタイ,ピンクのシャツに,紫のズボンとピンクの人工クロコダイルの靴など穿いて,プレミアに出席したいと思いました。そう言う凄まじい色のコーデイネイシヨンが,シック,スマートと澄まして黒かグレイしか着ない今,実に個人のアピールがあって、とても良いと思いました。俗にこう言うスタイルをピンプ(売春斡旋業)のようだとも言いますが。 さてアポロ劇場は1913年に完成,ネオクラシカルのデザインでもろもろの被害やダメージを受けて,改築を繰り返し、1983年には国立天然記念建物のような存在になったようです。古い劇場は写真に撮ったり,見学するときは良いものの実際に坐って2時間半の映画や長いショウなどを見ると椅子は小さいし,足のスペースは全く無い上に、階段などは狭くて,急で、暗い中で上り下