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Showing posts from February, 2018

BRENDAN FRASER 2018

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BRENDAN   FRASER   2018 目下ハリウッドのセクハラ問題で妙な注目を集めているのがブレンダン フレイザーの発言です。 私が属しているハリウッド外人記者協会(HFPA)の元会長がかなり前に 彼のお尻をつねって、そのトラウマで俳優稼業が落ち目になってしまったと言う内容で、男優が登場したのと、元会長がハリウッドの権力者のイメージのためにネットでニュースが広がり、新しい犠牲者として登場しました。 スポーツなどでよく見かける男同士のお尻をパット(軽く叩く)程度の「お触り」でブレンダンが悲鳴をあげたわけでもない上に、彼の仕事が全く枯れている状態なのがこの発言を哀れなものにしています。 2010  EXTRAORDINARY  MEASURES  ハッグしたり、キッスしたり、スキンシップがお好きなブレンダン。 次からの文は去年このブログに書いたものですが、もう1度載せてみました。 「のほほん」のカナダ人俳優たちの筆頭はやはりブレンダン フレイザーでしょう。 デビューした手の頃の役はほとんど、おバカさんばかり。それを全く自意識などなく、いとも自然に手掛けてしまって、それがまたブレンダンの大きな魅力でした。 「スカウト」(94)で田舎の投手が大リーグにスカウトされて高級ホテルの部屋で暇なあまり、かたっぱしから雑誌の香水のページのサンプル部分の匂いをクンクン嗅いだり、「原始のマン」(エンシーノマン)(92)での現代の原始人間、などなど笑い転げてしまう名場面をたくさん見せてくれました。 「ゴッド アンド モンスター」(98)では、名優イアン マッケレンに恋される庭師の役を、多少恥ずかしそうに、それが大いに効果を上げての演技を見せてましたし、「ハムナプトラ」(99)シリーズなどではアクションヒーローの役を大げさな表情で、大股で動いて、大きな体に健気な心意気が見えて、それがまた、母性愛をそそってました。 ところがこの10年来、ブレンダンは全くメジャーのハリウッドから消えてしまい、日本の映画雑誌「スクリーン」のスター年鑑からも、もう3年間も名前が除去されるという、悲しい状況に。 ネットの上でも、「どうしたのか?ブレンダン!」 といった質問が載ってますが、最近、やっとテレビに出ているのを発見しました。 街で見か

JEREMY IRONS 2018

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JEREMY  IRONS   2018 新作「レッド スパロウ」(18)(赤い雀)でロシアの 将軍役を、いつものようにミステリアスに、悪徳の香りを漂わせて演じているジェレミー アイアンズに会見。 ロンドンのクラリッジス ホテルに現れた彼は全身黒づくめ、着古して上質なスーツはスリーピース、小指にはいつもの金のシグネット リングとどこから見ても「苦味走った重要人物」の存在感があります。 以前に素晴らしくフィットしたダーク スーツを着て現れた時、スーツを褒めると 「これは30年前に作られたものなのだよ」 と裏地を見せてくれました。本当に古びた、でも、素敵な模様が入っている裏地で、もちろんサビル ロウの仕立てでしょう。体型が全く変わらないのも凄いことです。 タバコを長年吸い続けた人のちょっといがらっぽい低い声と独特の英国アッパークラスのアクセントがなんとも言えない各町の大人の魅力、おまけに女性の憧憬を浴びすぎてきたスターの疲労感が何しろデカダンなのです。 テレビシリーズの中で私が最も好きな「華麗なる貴族」 BRIDESHEAD REVISITED (81)での最も嬉しかった思い出をきいてみました。 「うーん。僕の誕生日だった。オックスフォード大でのロケーションで、その日はパント(Punt 小さな細い船)に乗って川を下る撮影で、一緒に乗っていたアンソニー アンドリュースが突然立ち上がってね。大揺れに揺れたから僕は船の縁を握って、「どうしたんだ!」と叫ぶと、アンソニーはやおら隠していた袋の中からシャンペンのボトルを出して、栓を開けるや、中身を僕に浴びせかけて ハッピー バースデー、マイ バスタード! と言うではないか。 いやはや、アンドリューは全くセバステイアンになりきっての忘れられない贈り物だった」 と嬉しそうに話していました。 バスタードは(まともな意味は庶子、普通はこの野郎) ってな意味で、セバステイアンは貴族のドラ息子で、ジェレミー扮する真面目なチャールズ ライダーを、退廃のリッチなソ サエティーに誘い込むのです。 何度もジェレミーに会ってますが、この日は殊の外ご機嫌で、今もスピードを楽しんでいるオートバイでの旅行、息子のマックスの活躍(映画やテレビばかり出てないで、もっと舞台に出て欲しいね。

BELFAST #2 TITANIC MUSEUM

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BELFAST  #2 TITANIC MUSEUM ベルファストの滞在は2泊と短い上に、ロケ地訪問がまるまる2日かかって、観光はほとんど無しでした。 ダウンタウンには入りやすいパブや、レストランが軒並みにありますし、綺麗に夜行照明された市庁舎や教会がとても素敵です。 チャーミングな訛りのアイルランド英語も暖かく響いて、 人々が連帯感を持っている印象を受けました。 「ザ トラブルズ」THE TROUBLES  又は、「コンフリクト」CONFLICT と呼ばれたアイルランドのゲリラ戦は1969年から98年までから大勢の命を失い、爆弾があらゆるところに仕掛けられ、長いこと ベルファストに観光に来る人などいなかったのです。 IRA,( Irish Republican Army)のテロ襲撃は壮絶なものでした。 知人の英国人記者はテロ時代の取材に何度となく訪れ、もう2度と来たくないと白状していましたから、そう言う悲劇を目撃した人には今でも「観光気分」は難しいのでしょう。 それにしても朝、ちょっと薄日が出て、ああ良いお天気だと思う間もなく、2時間ぐらいで空は暗くなり、雨が降り出すので、路上はいつも寝れて光っているか、舗装されてない道はぬかるみです。 前のページに書いたように、造船所として世界的に有名だったベルファストの誇り、タイタニック号を記念しての博物館は、びっくりするような前衛的デザインで、港のほとりに建っています。残念ながら今回は時間の余裕がなくて内部を見ることができませんでした。 その横にはタイタニック スタジオがあって、数々の撮影に使われているそう。 左がタイタニック 博物館、右は古い建物。コントラストが面白いです。(ネットから) タイタニック 博物館(ネットから) タイタニック号のシンボルの現代版デザイン。 港にあるタイタニック スタジオ (ネットから) 左がスタジオ、右が博物館。(ネットから) ベルファスト美術館には地元のの名産、リネン(麻)を使っての織物や現代美術が陳列され、郷土愛が暖かく感じられます。 もっと詳しいことを書きたいのですが、もっと時間があった時、ベルファストを舞台にした素晴らしい映画などと一緒に紹介しましょう。 ベルファスト空港で。クリステインと。

BELFAST NORTHERN IRELAND FEB 18-20 2018

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BELFAST  NORTHERN IRELAND FEB 18-20 2018 北アイルランドのベルファストにやって来ました。 ロンドンで乗り換えの時は太陽が照っていたのに、たった1時間のフライトでついたベルファストは雨が激しく降っていて、道路も建物ももう数百年雨が続いているような、じっとり湿った様相を見せていて、おまけに寒くて、アイルランドの暮らしの辛さをちょっと覗いた気がしました。 ホテルは反英国運動のIRAに最もたくさん爆撃を受けたホテルとして知られているヨーロッパ ホテルという古いホテル、横にはオペラ ハウス、後ろには中央駅があります。 今回の旅行はとある撮影現場の訪問で、まだ口止めされているので、何も書けません。 有名な豪華客船タイタニック号を建造した造船の町として有名ですが、あまりのテロリスト活動のために長いこと観光客などが避けていましたが、最近になって観光に力を入れてきたようです。 アイルランド共和国のダブリンと比べると、まだまだツーリストフレンドリーでない、不便なところが見えます。 また時間がある時に詳しいレポートを送りましょう。 ホテルの部屋から見えるオペラ ハウス。 ホテルのフロントにかけてある、造船所の制服の絵画。 ホテルの部屋からの眺め。かなり殺風景です。

DUNCAN JONES

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DUNCAN  JONES 前回のマヤ ホークがイーサン ホークとウマ サーマンの長女だったのに続いて、今回はダンカン ジョーンズを紹介しましょう。 2年前に亡くなったデヴィッド ボーイとアメリカ人のモデルだった最初の妻、アンジェラとの間に生まれた長男。 あまりにも有名な父親の跡を全く継がず、音楽の道はきっぱりと拒否して、CMヴィデオから映画監督としてすでにかなりの評価を得ています。 今回は「ミュート」MUTE (啞) というベルリンを舞台にした映画で、主人公の啞のバーテンダーになるのはアレキサンダー  サースガード、脇にポール ラッドとジャステイン セロー(1昨日にジェニファー アニストンと別居を発表したばかりです)を配置しての、近未来のSFドラマでのインタヴュー。 「父が1970年代にこよなく愛したベルリンをイメージして、父へのオマージュにしました。実はもう16年間もこのアイデアを考えて、やっと映画化に実現したのです。ベルリンには何度も行って、大好きな街。僕はスイスの全寮制の学校に行きましたが、そこはフランス語地域で残念ながらドイツ語はあまりしゃべれません。少しは話せますけれど」 とダンカンはとっても丁寧に、始終ニコニコして話をします。育ちの良さと言うより、天然の良心を持った人間のようで、これはロンドンのスーパースターの家に生まれて、ちやほやされても、そういうことに甘えずに育った、強い信念の持ち主のように見えます。 交際していたフィリッピン系アメリカ人の写真家の女性、ロデーン ロンクイーロ Rodene Ronquillo が乳がんと診断された日に、市役所に駆け込んで結婚式を挙げた行動など、慈愛に溢れた若者で、そばで話を聞いていると、まるで神に仕える羊飼いのように思えてきます。 1971年5月30日ロンドンのブロムリーに Duncan Haywood Jones として生まれました。 父母は1980年に離婚、ダンカンは父親のデイヴィッドに引き取られて育ちました。 前述したスイスの学校はローザンヌにあって、それからスコットランドの全寮制の学校に移り、大学は英国のウースター大、次はアメリカのテネシー州のヴァンダービルト大で哲学の博士課程を受けましたが、途中で退学、それからロンドンの映画学校で監督コースを学ぶなど、かなり教育意識が高い