LAUREN BACALL 1924-2014
LAUREN BACALL 1924-2014
ローレン バコールが亡くなってしまいました。8月12日,ロビン ウイリアムズが亡くなった翌日です。女優の中では最も好きなタイプでした。キュートなどと言う形容は不可のクールで、自信満々,上目遣いが又,挑戦を込めて,スタイルも抜群,セクシーなハスキー ヴォイス、大都会のジャングルを相手取って,ハッスルしながら生きて行く女性のイメージは新鮮で,オリジナルでした。
3度程会った事があります。既に70歳を超していましたがそれでも全く弱々しさなどゼロで,いつも毅然と,ほとんど傲慢と言える程の女王ぶりが又,ユニークで,刺激的でした。これはある広報担当者から聞いた話しですが,レッドカーペットで間違って彼女にぶつかってしまったら、ローレンは持っていたバッグで,その人(かなり大きな男性)をばんばんとぶったのですって! レッドカーペットはカメラマンやファンがスター達の全ての動きを目撃する場所です。誰もが気取って,一番良いところを見せてやろうと意気込んでいますから,異常な緊張が漂ってます。そこで平然とタキシード姿のパブリシスト(広報を担当するプロ達)を力一杯にイヴニング バッグでばしばし叩く、と言う直接的暴力的反応をしてしまうと言うのがいかにもローレン バコールでしょう。ちょっとコミカルな感じもしすが,かなりスキャンダラスでもあります。
わたくしが幸運にも会った3回も、そのような下らない質問にはお答えでいません、と言う,静かにして,おっかない雰囲気に満ちてました。別にそう言うわけではないのですが
表情と口調で察せられます。
馬鹿なことに時間を割く程私は暇じゃないのよ、と言うスタンスでもありましょう。
政治的な意見も堂々と言って,100パーセントの民主党支持を見せてました。
ローレンの自伝も出版された時、直ぐに買って読みました。ハンフリー ボガートがガンでもう駄目だと言う時期に闇衰えた彼のベッドに入って一緒に寝たとき、彼から朽ち果てた死臭が漂っていた、と言うくだりが忘れられません。何と言ってもボギーは25歳も年上だったのです。
1924年9月26日,ニューヨーク市にベテイー ジョーン パースキーとして生まれ,6歳の時に両親が別れ、ルーマニア移民のユダヤ人の母親は自分の姓のワインスタイン バコールのバコールを取って娘にもそう呼ばせたそう。
母親は大会社の重役の秘書だったそうですから、この母親も独特のスタイルと教養と知性を持っていたのでしょう。母の影響が会ったからこそ、たった19歳でハワード ホークス監督の「脱出」(44)で既にスターのボギーを相手に,あれ程互角に張り合うことは出来なかった筈。これが映画初出演だったのですから!
ボガートと翌年の45年に晴れて結婚,57年に死別,61年にやはり貫禄の大物俳優,ジェイソン ロバーツと再婚,そして69年に離婚,ふたりの息子のサム ロバーツも俳優に。
会見したのは「プレタ ポルテ」(94)、「マンハッタン ラプソデイー」(96)と「ドッグヴィル」(03)と、どれもローレンが70歳を超えてからでした。
あたりを睥睨するような態度と眼差しが何とも懐かしいです。彼女は一生、媚びる,とか、頼るという,キュートな若手女優がしばしば見せる,安直な姿勢を絶対に拒んできました。天国でもバッグで気に入らない人を
ばんばんぶっていくことでしょう。もっと写真がある筈です。いつか探して,ご覧に入れましょう。
ローレン バコールが亡くなってしまいました。8月12日,ロビン ウイリアムズが亡くなった翌日です。女優の中では最も好きなタイプでした。キュートなどと言う形容は不可のクールで、自信満々,上目遣いが又,挑戦を込めて,スタイルも抜群,セクシーなハスキー ヴォイス、大都会のジャングルを相手取って,ハッスルしながら生きて行く女性のイメージは新鮮で,オリジナルでした。
3度程会った事があります。既に70歳を超していましたがそれでも全く弱々しさなどゼロで,いつも毅然と,ほとんど傲慢と言える程の女王ぶりが又,ユニークで,刺激的でした。これはある広報担当者から聞いた話しですが,レッドカーペットで間違って彼女にぶつかってしまったら、ローレンは持っていたバッグで,その人(かなり大きな男性)をばんばんとぶったのですって! レッドカーペットはカメラマンやファンがスター達の全ての動きを目撃する場所です。誰もが気取って,一番良いところを見せてやろうと意気込んでいますから,異常な緊張が漂ってます。そこで平然とタキシード姿のパブリシスト(広報を担当するプロ達)を力一杯にイヴニング バッグでばしばし叩く、と言う直接的暴力的反応をしてしまうと言うのがいかにもローレン バコールでしょう。ちょっとコミカルな感じもしすが,かなりスキャンダラスでもあります。
わたくしが幸運にも会った3回も、そのような下らない質問にはお答えでいません、と言う,静かにして,おっかない雰囲気に満ちてました。別にそう言うわけではないのですが
表情と口調で察せられます。
馬鹿なことに時間を割く程私は暇じゃないのよ、と言うスタンスでもありましょう。
政治的な意見も堂々と言って,100パーセントの民主党支持を見せてました。
ローレンの自伝も出版された時、直ぐに買って読みました。ハンフリー ボガートがガンでもう駄目だと言う時期に闇衰えた彼のベッドに入って一緒に寝たとき、彼から朽ち果てた死臭が漂っていた、と言うくだりが忘れられません。何と言ってもボギーは25歳も年上だったのです。
1924年9月26日,ニューヨーク市にベテイー ジョーン パースキーとして生まれ,6歳の時に両親が別れ、ルーマニア移民のユダヤ人の母親は自分の姓のワインスタイン バコールのバコールを取って娘にもそう呼ばせたそう。
母親は大会社の重役の秘書だったそうですから、この母親も独特のスタイルと教養と知性を持っていたのでしょう。母の影響が会ったからこそ、たった19歳でハワード ホークス監督の「脱出」(44)で既にスターのボギーを相手に,あれ程互角に張り合うことは出来なかった筈。これが映画初出演だったのですから!
ボガートと翌年の45年に晴れて結婚,57年に死別,61年にやはり貫禄の大物俳優,ジェイソン ロバーツと再婚,そして69年に離婚,ふたりの息子のサム ロバーツも俳優に。
会見したのは「プレタ ポルテ」(94)、「マンハッタン ラプソデイー」(96)と「ドッグヴィル」(03)と、どれもローレンが70歳を超えてからでした。
あたりを睥睨するような態度と眼差しが何とも懐かしいです。彼女は一生、媚びる,とか、頼るという,キュートな若手女優がしばしば見せる,安直な姿勢を絶対に拒んできました。天国でもバッグで気に入らない人を
1996「マンハッタン ラプソデイー」 |
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