DYLAN MCDERMOTT


 DYLAN  MCDERMOTT


昨日のダーモット マルロニー DERMOT MULRONEY  に続いて、似たような名前、年齢、役柄でワタクシ(達)を混乱させるデイラン マクダーモットを紹介しましょう。

デイランは1961年10月26日 コネチカット州のウオーターバリーに生まれました。

以前に雑誌に書いたデイランの記事を無断借用してご覧に入れましょう。かなり長いので、すっ飛ばしながらどうぞ。


 デイラン マクダーモットとダーモット マルロニーと区別がつかないのはわたくしだけでなく、業界を含めて世間一般の人々もどっちがどっちか明確には分かっていないようで、二人の記事など読むと必ず注釈が付いて来る。両人ともアメリカの東部出身の涼しさがあるし、同じDMのイニシャルにアイルランド系の名前、デイランが61年生まれで54歳、ダーモットが63年生まれの52歳,二人とも黒髪のハンサムで似た様な体型,役柄もお互いに自由に交換出来そう出し、映画とテレビでの活躍度もほとんど同じ、と混乱してしまうのも当然だとファンには申し訳ないが一応弁解をしておく。


年齢順に今回はまずデイラン マクダーモットを紹介しよう。大ヒットとなったテレビシリーズ「ザ プラクテイス」THE PRACTICE (97-2004)の凛々しい弁護士役でお茶の間のアイドルとなって以来、テレビスターのイメージが強いが、始めは舞台、次に「ハンバーガー ヒル」HAMBURGER HILL (87)や「トウイスター」TWISTER(89)のちょい役出演、ジュリア ロバーツ JULIA ROBERTS の優しい夫を演じた「マグノリアの花たち」STEEL MAGNOLIAS (89)で頭角を現し、「ザ シークレット サービス」IN THE LINE OF FIRE (93)ではクリント イーストウッド CLINT EASTWOOD のパートナーを演じたり、ジョデイー フォスター JODIE FOSTER が監督した「ホーム フォア ホリデー」HOME FOR HOLIDAY(95)にもアンサンブルキャストに参加とそれなりの映画俳優の地位を得ていたが主役は回って来ず、テレビの「ザ プラクテイス」でやっとトール,ダーク、ハンサムの二枚目条件を備えてのスターとなったのである。


初めて会ったのは1997年、「ザ プラクテイス」がスタートした年だが、既に人気も上昇中、法廷弁護士の頭脳戦に臨む落ち着いた姿勢と自信のみなぎりを漂わせ,仕立ての良さそうなダークスーツに真っ白なシャツと言うお行儀の良い,そしてデイランの精悍なルックスを引き立てるスタイルで現れた。

「夢が実現した。自分で納得出来て、ベストを注ぎ込む仕事をやっと手に入れて、毎日がもの凄く充実している。脚本を書いているデイヴィッド ケリー DAVID KELLY (ミシェル ファイファーの旦那)のセンスと僕の感性が一致して、僕が意図するストーリーが彼からストレートに入って来るという俳優にとってはこれほど嬉しいことはない。元弁護士のデイヴィッドならではのスマートで現実感の強いドラマが生まれて来る。おまけに単なる出演者の僕のアイデアや意見までしっかり聞いてくれて、精力的に番組に取り組んでいる彼の姿勢が現場の強力な励ましになっている。こんなに理想的な仕事場は始めてで、なんて僕はラッキーなんだと毎日が感謝なのだよ」


映画からテレビへ移った事に付いては、

「かなり良質の作品や独立系の映画に出ては次はもう少し肉の付いた役を、と願望し続け、「ザ シークレット サービス」ではこれこそターニングポイントになる!と興奮したものの、それから5本ぐらい立て続けに出ても全くヒットせず、僕のいる立場は変わらなかった。演劇学校で学んだ技術や舞台の経験は一体何だったのだろう,あれ程のハードワークを注いだと言うのに、と鬱々として数日間寝込んでしまった程なのだった。

しばらくたってAFI(アメリカン フィルム インステイテユート)の授賞式があって、クリント イーストウッドが受賞すると言うので出席する事になり、ここで知り合いのプロデユーサーに会い,「テレビのシリーズの話がある」と持ちかけられた。自分がテレビの連続ドラマに出るなんて考えてみた事も無かったが、その時は不思議な運の巡り合わせなのだろう,デイヴィッドの脚本を読む機会を与えられて読むや否や、僕は法廷での最終演説を自分で自然に演じていると言う程の役との一体感を持ったんだ。僕の皮膚の中にするりと入り込んだようにぴったりの役ではないか!カルマだと思ったね。テレビに転向して映画の仕事が来なくなっても構わないと決意出来る程の僕のために書かれた役だった」

と力を込めて話してくれた。当時はまだまだ映画俳優がテレビのレギュラー役を手がけるのは出世の逆方向だったのである。

今や映画よりテレビの方が面白くてやりがいのある役があるとケヴィン スペイシー KEVIN SPACEY からケヴィン ベーコン KEVIN SPACEY ,アレック ボールドウイン ALEC BALDWIN 達が張り切って主役を演じているが。


デイランはおもむろに自分の生い立ちを話してくれたが,これが又、そこらのドラマより遥かに劇的で、目の前のピカピカ光っている様なハンサムなスターからは想像もできない程に不幸で辛い少年時代を過ごしたのである。

「僕の毋は15歳の時に僕を産み、父は17歳と子供が子供を産んだ様な状況だった。工場に勤めていた父はそれでも義理堅く結婚して、5年後には妹が生まれたが、その直ぐあと父は家を出てマンハッタンでバーテンダーを始めてね。祖毋が僕らの世話を焼いてくれたが、母はたった20歳で事故だったがボーイフレンドの銃弾に当たって死んでしまうと言う突然の悲劇に見舞われた。この男は母は自殺だと言い張リ、結局は自殺と記録されたようだ。僕はまだ5歳、妹がたった6ヶ月の赤ん坊だったと言うのに。祖母は懸命に僕らを育ててくれたが僕は孤独で、ひとりぼっちで居ることが多く自分が透明な存在の様な気がしていた。思春期の僕は怒りを抑えず、大酒を飲んでけんかばかりする非行少年になってしまったが、ちょうど父が再婚した相手がイヴ エンスラー EVA ENSLER という戯曲家で、「ワギナの独り言」と言う劇を書いて既に知られた存在でね、彼女が僕に俳優の道を指導してくれたんだ。僕が15歳、たった9歳年上の継母だったけれど自己破壊に突進していた僕を救ってくれて、彼女の劇に僕を起用したり、僕に目的を与えてくれた。残念なことに父との結婚は長続きしなかったが僕たちの親交はずっと続いてね。イヴが父との子供を流産した時に予定していた名前がデイランだったから僕は自分の名前のマークを変えてデイランにして彼女を慰めたのが僕の芸名の始まりなのだよ。

大学の演劇部に入って舞台にすっかり魅了され、85年にはニール サイモンの「ビロキシー ブルース」PIROXY BLUES (後にマシュウ ブローデリック MATTHEW BRODERICK が同劇の映画版「ブルースが聞こえる」(88)に主演した)の舞台に立ち、この時スカウトされてハリウッドに移ることになったと言うのが僕の俳優としての成長過程だ」

結局、継母のイヴはデイランの父親と別れた後、デイランをを養子に迎えたと言う程に二人の結びつきは強かったのである。こういう複雑な生い立ちがデイランに陰影を与え,それが俳優としてプラスになったにちがいない。


「マグノリアの花たち」で共演したジュリア ロバーツとしばらく交際した後,婚約までしたり、やはり女優のメリッサ ギルバートと親しくなったり、デイランはハリウッドのプレイボーイとしても知られていたが95年にペルシャ系の女優、シヴァ アフシャー SHIVA ROSE と結婚。そのいきさつについても気楽に話してくれた。

「良いと思って出演した映画はヒットしないし、最初から分かっている駄目な映画に考えもせずに出たり、同じ様なタイプの女優とばかり付き合って、僕の生活はまるで古くさいシナリオの様になってしまった。ジュリアと付き合った頃は二人とも子供で一種の映画カップルの延長を行っただけだった。15年間位同じパターンを繰り返し、僕は決意した。全く違うタイプの女性を求めようとね。女優と付き合うのは止めよう。俳優業は毎日毎日、自分、自分と言うもの凄いエゴの世界で,相手が女優だとお互いのエゴがぶつかりあって、結局は自分優先になり、では別れようと言う言葉がいとも簡単に出て来てしまう。有名になればなるほど浮いた存在になって、役を離れると全く面白くない人間になっるんだ。そう言う嫌なパターンをいやになるほど観て来たのだから。


そして出会ったのがシヴァなんだ。今までと全く違ってまず彼女は誠実で純真な心を持っている。それが新鮮で僕はすっかり彼女の人間性に惹かれてしまった。今は子供も生まれ、これが僕のエゴを全く消してしまったね。自分より遥かに大事で、オムツを替えると言う作業さえも愛おしく,愛情に溢れてやることが出来る。何が欲しいかと娘の要求に集中していると自分のことなどすっかり忘れているだろう。僕も子供のおかげでぐんと成長したとつくづく思う」


映画の現場が恋しくないかと聞くと

「先日「ブーギー ナイツ」BOOGIE NIGHTS を観たがパワフルな映画だなーと感動した。やっぱり映画はアメリカの貴重な文化だと確信したね。勿論恋しいが今はテレビの仕事に専念することに満足している」

と毅然として答えていた。


数回の会見をすっ飛ばして「ワンダーランド」WONDERLAND (03)から。ヴァル キルマー VAL KILMER がポルノスター、ジョン ホームスを怪演した映画である。この年にデイランは「ザ プラクティス」を降版、映画の仕事に再度挑戦中だった。

「実は最初はジョン ホームズを演じたいと思ったのだよ(笑い)結局髭面のデヴィッド リンドの役をすることになったが,髭を付け,体中にタトウーを施されて全く違う外見になったのが嬉しかったね。そのままオートバイに乗って知り合いに会いに行くとみんな誰だか分からなくて、最高に愉快だった。僕は家に古くさいデイランを置きざりにして、外では、ずっとリンドになりっぱなしだった。殆どリンドが乗り移ったと言った方が良い程かもしれない。先日から65回もインタヴューしたが誰も僕がリンドだと最初からは気がつかなかったと白状していたのだから。テレビの仕事がなくなったショックや失望感がこれですっかり消えてしまったのも嬉しかったね」


明るい顔でこう豪語していた。

「やっと経済的に安定したから、これからはギャラを気にせず、独立映画などのやりたい役を選んで行こうと思っている。もう家賃を滞納するなんて言う心配は無くなった。義理や友情で映画に出るのもごめんだ。ノーと言える自信と度胸がついたね」


再びテレビシリーズに戻っての「アメリカン ホラー シリーズ」AMERICAN HORROR SERIES (11)では冒頭から全裸の後ろ姿を見せての激演ぶりで、このために猛特訓でシェイプアップしたと言う。この会見の時は既に最愛の妻とも離婚し(08年)50歳の貫禄と余裕が漂い始めていた。

「僕にはアイリッシュとイタリアンが混ざっているのだが僕を育ててくれた祖母にはシシリーの熱い血が流れていて,生活を支えるために昼は工場、夜はケイタリングと2個の仕事をする逞しい女性だった。いつもおいしいラザニアを作ってくれて、特にトマトソースが最高でこれをミートボールやスペアリブに使ってね。祖母が亡くなる直前に作ってくれたソースを大事に冷蔵庫に入れてしばらく祖母を思い出して泣きながら味わっていた。一年発起して僕がそのソースを自分で作る様になったのは、祖母に対する感謝の気持ちからなのだよ」


そして次のテレビシリーズ「ストーカー」STOKER (14-)で共演した中国系の美人女優、マギー Q   MAGGIE Qと目下婚約中。ますます脂がのってのハンサム、もてもてぶりを見せつけているのである。


後書き:

マギー Q とは2014年から19年まで婚約を続けて、結局破局、つまりデイランは目下独身であります。












タフガイのイメージを保っています。








2018「LA トウ ヴェガス」ダーモット マルロニーと。




シャーロット と コレット

長女のコレットと。

マギーQと。

父親のリチャードと妹のロビン

シヴァ と。

ワイフのシヴァ



マギー Q

2002年 アリエル ジョーダン、エヴァ エンスラー、シヴァ





 

Comments

Popular posts from this blog

IGGY POP

DEVON AOKI

ADAM LAMBERT