COURTNEY LOVE
COURTNEY LOVE
コートニー ラヴ とは3回もインタヴューしましたが、いつもスキンシップが濃い、甘ったれというのか、誰にでもくっ付くタイプの女性なのか、良く分かりませんが、なよなよとして、掴みどころのないパーソナリティーだなと思いました。
実はほとんど彼女の歌やパーフォーマンスを観たり、聴いたりしていないので歌手としての才能は十分に知ってはいますが、実力とか影響力などに付いては何とも言えません。
でも映画女優としては怖いものなしの出たとこ勝負のエネルギーが放出するダイナミックな演技を見せてくれます。
初めて会見したのは「ラリー フリント」THE PEOPLE VS LADDY FLYNT (96)にエドワード ノートン EDWARD NORTON と共演して、その後ふたりがしばらく交際を続けていた時。きちんとした服装など絶対にしないコートニーはノーブラにゆるゆるのドレスを来て、髪もわざとくしゃくしゃ、メークもわざと乱れた感じで、トレードマークの「崩れたスタイル」と酔っ払っているようなへなへなな行動を見せてくれました。
言っていることは真面目で、演技に対する姿勢もしっかりしているのですが、会見などという場に出ると「真面目になんか振る舞えない!」という小悪魔的、反逆魂がにじみ出てくるのでしょう。
一番最近会ったのは「サンズ オブ アナーキー」SONS OF ANARCHY (14)というTVシリーズの最終シーズンに出演した時。以前とは打って変わってパステルカラーに囲まれて、ソフトで甘い雰囲気を漂わせていました。それでも相変わらず、わざとはすっぱ風な口の聞き方をするのが微笑ましくもあり、チャーミングでもありました。
1964年7月9日 サンフランシスコにコートニー ミシェル ハリソン COURTNEY MICHELLE HARRISON としてバンドの「グレイトフル デッド」GREATFUL DEAD のマネージャーをしていた父親とサイコセラピストの母親のもとに生まれ、カウンターカルチャー真っ盛りの時代に地元で何の制約もない育ち方をしたのです。
ハイト アシュベリー HAIGHT-ASHBURY と言うヒッピー文化のメッカが近くにあり、ドラッグやら、反戦やらの活動を目の当たりにし、両親が離婚してからはアイルランドなどにも住んで、トップレスダンサーをしたり、ヴィンテージの服の販売をしたり、アンダーグラウンドの世界を味わって成長したそう。
1989年にバンド「ホール」HOLE をスタートし、1992年に「ニヴァーナ」NIVARNA のカート コバーン KURT COBAIN と結婚、2年後にカートは自殺して世界中を騒がせました。
96年の「ラリー フリント」では画期的な男性用ポルノ雑誌「ハスラー」HUSTLER の創始者、ラリー フリント LARRY FLYNT (1942−2021)と結婚する元ストリッパーを演じて注目され、共演のエドワード ノートンと以後4年間交際、婚約したという噂も!出回ったり、
「教養があって、育ちが良く、礼儀正しいエドワードに演技のことから、文化から、何もかも教えてもらったのよ」
とあっけらかんとのろけていました。
ちなみにラリー フリントは車椅子の体になってから毎日のようにビバリーヒルズのフォア シーズンズ ホテルでスタイリッシュに昼食を取るのが日課でよく車寄せでロールスロイスから運転手に助けられて出てくる彼の姿を見かけたものです。
カートとの間に生まれた娘、フランセス ビーン コベインFRANCES BEAN COBAIN (92年生まれ)と軋轢が生じた時は母娘の間を取り持ってくれたのがノートンだったと後に白状していますがこれもいかにもノートンらしい行動です。
2006年にはメモワール「ダーテイー ブロンド:ダイアリーズ オブ コートニー ラヴ」DIRTY BLOND: DIARY OF COURTNEY LOVE を出版、現在も新しい音楽を作曲中と創作に勤しんでいる様子。
57歳になっても自由奔放なヒッピー精神を貫いているようで、いつまでもムキになって突き進んでもらいたいものです。
2014 パステルカラーに囲まれて。 |
1996「ラリー フリント」 |
カートとの間に生まれた娘フランセスと。左は子供の時。 |
カート と コートニー |
カート と。 |
「ホール」のバンドメンバーと。 |
「ホール」 |
エドワード ノートン と。 |
1986「ストレート トウ ヘル」ポスター |
コートニーと父親のハンク |
「ホール」バンドメンバーと。 |
娘のフランセスと。 |
カートと娘のフランセスと。 |
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