LOUIS MALLE


LOUIS  MALLE


ルイ マル はフランスきっての名監督でした。 

今日10月30日は彼のお誕生日です。

1932年、フランスのノール NORD 県テミュリー THUMERIES に代々続いた名家にして、フランス有数の実業家の息子として生まれ、パリの高等映画研究所で映画作りを学び、フランスの監督、ロベール ブレッソン ROBERT BRESSON の助監督を経て、ジャック イーヴ クストー JACQUES YEVS COUSTEAU 監督のスタッフとなり「沈黙の世界」THE SILENT WORLD (56)を共同監督、この映画はドキュメンタリー部門でオスカー賞を受賞、翌年、自己資金!で「死刑台のエレベーター」ASCENSEUR POUR L'ECHAFAUD ,  ELEVATOR TO THE GALLOWS を監督して世界中の注目を浴びました。この時マルはたった24歳だったのです。

「恋人たち」THE LOVERS(58)はベネチア映画祭審査員特別賞を受賞、「地下鉄のザジ」ZAZIE DANS LE METRO (60),「ビバ マリア!」VIVA MARIA !(65),「ルシアンの青春」LACOMBE, LUCIEN (74),「アトランティック シテイー」ATLANTIC CITY (80)はベネチア映画祭の金獅子賞受賞、「さよなら子供たち」AU RENOIR LES ENFANTS (87)はフランスのオスカーと言われるセザール賞を受賞、ベネチア金獅子賞も受賞しています。

日本に住んでいる時、よく雑誌や新聞で彼の名前を見ましたし、若い新進気鋭のフランスの監督たちの動きだった「ヌーベルバーグ」NOUVELLE VAGUE (新しい波)という言葉も知りましたし、映画も殆ど見たのですが、若かったことと、派手なミュージカルが好きだった少女のワタクシには「暗くて、妙に怖い映画」という思い出しかありません。

彼、そしてワタクシも同じ1978年頃、アメリカに来てからの映画はもっとハリウッドの味が付いて、ワタクシも大人になっていたので、感情の起伏や鋭い感性がスクリーンから覗けて、アメリカ映画とは違う面白さが理解できました。

一度だけインタヴューしたのが「ダメージ」DAMAGE (92)の時。ジェレミー アイアンズ JEREMY IRONS とジュリエット ビノッシュ JULIETTE BINOCHE の寒気がするほどの狂気の情事のドラマでした。当時60歳のマルのセクシュアルにして、マニアックな感性にびっくりしたものです。

「42丁目のワーニャ」VANYA ON 42ND STREET(94)が最後の作品で、1995年11月23日にビバリーヒルズの自宅でリンパ腫のためにたった63歳で亡くなりました。


プライベートライフも国際的で華々しく、65年に女優のアン マリー デショット ANNE MARIE DESCHODT と結婚、67年に離婚、次はドイツ貴族にして女優と交際して、男の子を一人もうけます、それからカナダ人の女優と交際して、女の子を一人、そして、アメリカ人のスター、キャンデイス バーゲンCANDICE BERGEN と結婚したのが1980年、二人の間には85年にクロエ CHLOE という女の子が生まれています。

キャンデイス バーゲンには、何度もインタヴューしていますし、もちろんフランス語はペラペラ、美の追求者のマルが追い求めた美しさとエレガンスを豊かに湛えて、その上に品があって、控え目で、思いやりのある、ワタクシの大好きなハリウッドらしからぬ女優の一人。

彼女のデビュー作「グループ」THE GROUP (66)の時の溜息が出そうにシャープな美しさをご覧に入れましょう。フランス人の上に世界レベルの洒落男のマルが恋に落ちたのがお分かりになると思います。


1992「ダメージ」の時。





1966  THE GROUP の時のキャンデイス







1957「死刑台のエレベーター」モーリス ロネ と ジャンヌ モロー

1987「さよなら子供たち」

1992「ダメージ」ジェレミー アイアンズ と ミランダ リチャードソン


若い頃のモローとマル。


娘のクロエ、マル、バーゲン

バーゲン と マル

1992「ダメージ」ジュリエット ビノッシュ

「ビバ マリア!」ブリジット バルドー

マルとバーゲン

1992「ダメージ」アイアンズ と ビノッシュ

 

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